エネルギーを奪われる、という意識が浮かんできました。
その後、何かに依存している厄介者、という意識が浮かびます。
なんのことだろう、と自分に聴いてみると。
私は自分の女性性を男性性に寄生・依存する厄介者だと感じている、という潜在意識が浮かびあがってきました。
なるほど。
自立、依存の対極の関係の中で、自立は良くて依存は良くない、という概念が私の中で膨らんでいたのですね。
依存は自立の一部。
依存なくして自立はありえない。
依存と自立はお互い補完関係にあるのに、依存だけを抑圧する気持ちが強くなって、結果的に依存概念が自立より大きくなっていたみたいです。
私の女性性は、男性性に対する「パラサイト」な存在。
こんな風に感じていたとしたら、女性性はいつまでもその力を発揮することができないまま。
当然、男性性も本来の働きではなく、お互いに逆の意味での共依存になってしまいます。
これって、女性と男性の関係でも言えそう。
「厄介者」という概念が最大のネックになっていたのかもしれません。
厄介をかけても、相手がそれを支えることで、相手の力を引き出すお手伝いになることもあるのかもしれません。
「厄介をかけてはいけない」と思いすぎれば、「自分は厄介者だ」という意識がドンドン膨らむ。
これが私たちの意識の「両極性」の仕組みです。
おたがいさま。良くも悪くもすべてのことが「おたがいさま」だとしたら。
厄介をかけることと厄介をかけられることは「おたがいさま」。
もしかしたら、別のシーンで厄介をかける役割と厄介をかけられる役割が入れ替わることがあるかもしれません。
たまたまその時は、厄介をかけたようでも。
おたがいさま、を意識すると、「厄介者」の意識が和らぎます。すると「依存」「寄生」「パラサイト」などの意識も薄まります。
まず大前提の「自分は厄介者だ。誰かに依存しなければ生きていくことができない」という意識を認め、受け容れることにします。
自分は、はこの場合、私の女性性は、ということです。
私たちは女性性に対して、徹底的にネガティブな感情を抱いている生き物なのかもしれません。
女性性への意識を統合して、女性性の立場を真ん中にもってくる。良いところも悪いところも含めて。
すると自然に自分への評価が変わります。自己肯定が進みます。
ということは、自己否定の強い人は特に女性性の否定が強いということになりますね。
改めて、根深い課題だとわかりました。
ずいぶんと掘り下げた気になっていたけど、私の女性性の統合作業はまだまだ続くみたい。
仕組みがわかったので、エゴの抵抗は起こりません。
ただただハートで感じる。その概念のエネルギーを。
受容という力が自分を一歩前進させてくれます。
ハートの扉が開きます。それは美しく麗しい体験です。
※ 追記
エネルギーを奪われると感じた瞬間「エネルギー泥棒」という意識が浮かんできました。
エネルギーを奪うことはできるのでしょうか。
エネルギーは所有できるものなのでしょうか。
そもそもエネルギーをもっている人など存在しているんでしょうか。
エネルギーは流れているだけ。
たまたま通過しているだけ、なのだとしたら。
エネルギーの奪い合いという概念がなくなります。
これって、資源とかお金とか、そういうことに共通した概念かもしれません。
自分のものなのか、共有しているものなのか。
所有と共有。
共有と思いすぎると所有意識が膨らむ。
意識の両極性ゲームはこうやってずっと続くのですね。
その両極を感じることでしか、ワンネスに続く道はないらしい。
両極性あっての単一性。
両極性は、「在る」んです、いけないものではなく、きちんと価値がある。
なぜ私たちは何かを排除する癖がついてしまったのでしょう。
排除癖が強すぎると、自分自身を排除、つまり殺してしまうのに。
受容。ひたすら受容。
ハートで感じるしかありません、すべてのことを。むずかしい理屈なんてどうでもいいから、というかわからないから、シンプルにただ、感じる。