おこちゃまみたいに「ちゃんと言えたよ」のご報告、その2です。
私は人に本心をなかなか言えません。自分がかわいいのです、自己保身。「こんなこと言ったらきらわれる」とか「こんなこと言ったら相手を傷つける」とか。「自分さえがまんすればまるくおさまる」という、子供の頃からの思考習慣がまだまだ抜けません。カウンセリングをさせてもらう時はなぜか本心に近いものが言える。なぜなんだろう。
少しずつ自分のハートを開く練習をして、やっと最近少しだけ本心が言えるようになりました。怒れるようにもなりました。それでも「怒るのはいけないこと」との抑圧意識は半端ない。
ある人とのメールでのやりとり。
その人は何かにつけて「干渉」してきます。「こう考えるといい」とか「こういう文章を書くといい」とか。
最初の頃は親切だと思っていたのですが、違う、違う、支配欲が強いだけ、ということに気づきました。
自分の意見を相手に押し付けて、それで自分が優位に立ちたいタイプ。それをソフトな言葉で包んでいます。
今までも何回か、それらしきこと、つまり「私にはその手の情報は必要ない」ということを遠回しに言ってきたのですが、遠回しなので真意が伝わらない。
その人自身支配され、抑圧されてきた人なのでしょう。けれどその人に同じように扱われる私にもきっと支配の被害者としてのエネルギーがあるに違いありません。
「被支配者でいた方が楽」という潜在意識です。
支配・隷属という関係は私の中では卒業の時がきました。その人に依存しなくても私は生きていけます。
そうなんです、支配欲の強い人は支配というエネルギーで被支配対象に依存しています。それに気づかないから、あるいは受け容れたくないからずっと支配の立場におさまろうとする。それを容認する被支配者側が変わらない限りその関係は続きます。親と子の関係のように。
思い切ってその人に「もうその手の情報は私には必要ありません」と、もう少しソフトにそれでも毅然とした意志だけは込めてメールをお送りしました。
きょう起きたら自分の中のエネルギーがまるで変っています。いつもなら「あんな書き方して失礼だったかな」と罪悪感が浮かんできたりするのですが、その気持ちはゼロ。
私は私。あなたの言いなりになるつもりはありません。もしそれがいやなら私から離れてください。
とさらに毅然とした自分がいるではありませんか。
嫌いだと言っているのではありません。関係をリセットしたいというのが私の気持ちです。
干渉しないで。それは愛でもなんでもないから。あなたのエネルギーは大切なあなた自身のためにもっと有効に使ってください。
という私の本心が明確になりました。
これをみて私に対して「イヤなヤツ」と感じる人がいてもいいんです。
私は私自身を生きるためにこの生を授かったんだから。誰かの顔色をうかがうためではなく。それに価値に「絶対」はありません。すべてが主観、誰かが「イヤなヤツ」と感じだとしても誰かは「うんうん、わかる」と共感してくれるのですから。
支配・隷属という関係が必要だった時代があったのは事実。今はそれは「卒業」です。
私自身、過去を振り返り、もしかしたら愛のつもりで干渉をしてきたのかもしれない、と思うことが浮かんできました。
そのことをしっかり感じて、次なるステップを踏み出そう、と今、気分はかなりハイ。
人間関係に変化のメッセージが何回も浮かんできています。
そのためには、きちんと自分の感情に向き合って自分で清算しなければいけないことがあるんですね。
自分にまっすぐ。自分の目を見て。
そのチャンスをくれたその人とのご縁に「ありがとう」。
※ 追記
何だか気分がいいなぁ、とメールチェックをしたらその人からお返事が。
やっと伝わったようです、ホッ。
心理学者・アドラーの理論をベースに書かれた『嫌われる勇気』という本があります。
日本人はなかなか嫌われる勇気が持てません。
もちろんケンカを売って意図的に嫌われなさいという意味ではなく、自分が誠意をもって行ったことでも結果的に相手に嫌われてしまうことがある。その勇気を持ちなさい、嫌われないために自分にウソをつくより、自分に正直に生きて嫌われた方が数段素晴らしい人生なんですよ、との私の個人的解釈です。
この実践の機会をその人が提供してくれたのですね。
よし、新たな人間関係に向けて、さらに自分らしさを磨いていこう。
共依存から自立。そして相互依存。ふむふむ、いい感じ。共依存と相互依存はまったくことなるものです。前者はエネルギーの奪い合い、後者は補完し合う協調の関係です。
嫌われる = いけない、ではありませんよね。
自分に「Yes」を出した結果、そのお相手との関係は変わり、新たな自分が始まる、というサインの現象化ですから。
新たな「好き」が生まれる祝福の時です。
こころの中は春、みたい。