人のこころの中には愛の餓鬼が住んでいる

愛の餓鬼。

 

私の個人的解釈によると、「愛がほしいよ~」「愛されたいよ~」と愛をむさぼろうとする餓鬼のこと。

 

私たちの中には、必ず愛の餓鬼が住んでいるんだと気づきました。

 

私たちは元々愛の一部でした。

愛そのものでした。

愛にくつろぐのが得意でした。

 

ところがある時、愛から分断されて、いつもいつも「愛がほしいよ、愛されたいよ、淋しいよ」と泣き叫ぶように創られてしまったのです。

 

人間として生を授かり、私たちはそこかしこで「愛の統合」に向けてさまざまな学びを繰り返します。

 

「これは少しだけ愛」を積み上げて。

 

愛を積み上げれば積み上げるほど、その一方で愛の餓鬼は黙っていません。

 

「僕にその愛ちょうだいよ」

 

愛にめざめた私たちは愛の餓鬼の存在をよくないものとして捉えているので、餓鬼の言い分を無視します。

 

「あっち行ってて、あなたなんかの思い通りにさせないわ」と。

 

愛の餓鬼は反発します。

 

「何言ってるんだ。僕はあなたの一部だよ」

 

その反発は哀しい反発です。

 

「どうしてわかってくれないの ? どうして認めてくれないの ?」

 

どこかで聴いたセリフです。そう、幼い頃の私たち自身の言葉。

 

愛の餓鬼は私たちの一部。私たちそのもの。

 

彼らを受け容れない限り、私たちは真に愛の中にくつろぐことはできません。

 

愛を唱えている人、一見愛の立場の人ほど、愛の餓鬼を受け容れる必要があるのではないでしょうか。抑圧は、統合とは程遠いエネルギーです。愛の統合をこころみるのなら、愛の闇の側面もしっかりと見つめなければ。

 

あなたの周りで、どうしようもないほどイヤなヤツや面倒なヤツがいたら、それはその人の愛の餓鬼が暴走している証拠です。

 

「あ、淋しいんだな、愛してほしいんだな」

 

そう思うだけであなたのその人への感情は変わります。

 

もしかしたらそれはあなた自身の愛の餓鬼の姿なのかもしれません。あなたが気づかないだけで。

 

人はみんな淋しい。

人はみんな愛されたい。

 

その現実をしっかりと味わいませんか。自分が苦しい時ほど愛の餓鬼の姿が視えなくなります。

 

みんなの心に住んでいる。

それがデフォルト、愛の餓鬼ちゃん。

 

なんだそうだったのか。

 

こころがフンワリしますね、そう思うと。

 

愛の餓鬼ちゃんは、私たちに愛の学びをさせてくれる素晴らしきパートナーです。

 

彼らと上手に付き合えるようになると、私たちの愛の統合は進みます。

 

もちろん100%ではないけれど。

 

愛にくろつぐその瞬間が増える踏み石だとしたら、愛の餓鬼ちゃんにもきちんとした価値があることがわかるでしょう。決して困ったちゃんなだけではありません。

 

私たちの中には私たちに必要なものがすべてつまっています。

 

愛の餓鬼ちゃんはその中でも大きなウエイトを占める重要な存在ではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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