ある本を読んでいて気づいた。
なるほど、いまの日本のヨーガ、ヨガの柔軟信奉は、ここが出どころだったか、と。以降ヨガでお話を進める。
さらにその著者はベジタリアンを推奨している。
ヨガ = ベジタリアンの意味合いが強いが、インドにおけるベジタリアンはオイルをたっぷり使うという話を別のところで目にした。また、野菜や豆など食材そのものも日本のものとは大きく変わるんだとか。おそらく腸内細菌だってインド人と日本人のそれは異なるはず。
何より体質は一人一人異なる。
自分の体質に合う食事としてベジタリアンというスタイルはよくわかる。思想的なベジタリアンは、少なくとも私にはピンと来ない。思想的・宗教的ベジタリアンの主張は知ったうえで、それらを否定するのではなく、個人的な感覚として。
日本人でインドの教えに傾注し、ベジタリアンだった女性が若くして大腸がんで亡くなった事実を知っている。
私が二回レッスンを受けたヨガの女性の先生は拒食症だった。
もちろんたまたまだろう。
ヨガ、あるいはヒンドゥーの教えは神秘的であり魅力的なものだ。けれどすべての人に合うとは限らない。
さらに言うのなら、ヨガはそもそもバラモンの教えだ。そのそもそもをたどっていくことによって視えてくる何かもあるはずだ。
日本でもヨガがブームになり、スピリチュアルと一体化して、さらにナチュラル志向、健康志向と結びついて今、日本独自のヨガ・スタイルが展開されている。本来の「ヨーガ」と比べてハードルがかなり低くなっている。そのお蔭で私たちは手軽にヨガをライフ・スタイルの一つとして楽しめるようになった。
私はヨガ歴14年目にして、ヨガと一旦距離を置くことに決めた。どこかしっくりこないと感じたから。
その代わりというわけではないが、気功と太極拳とピラティスを実践している。もちろん趣味として適当に。ヨガはストレッチの代わりと呼吸法という、私なりの目的を見つけた。ヨガの頻度は減らした。瞑想は勝手にやっている。かなりの自己流。食事は食べたいものを食べる。
ヨガの大元のグルイズムにしっくりこないものを感じたというのが本当のところ。さらに私が知る限りではヨガにはアース・スター・チャクラを重要視する概念がない。ヨガのチャクラ概念は上半身優位。あぐら座をベースにしている。「ヨーガ」を唱える先生が立位のポーズをヨーガだと捉えている人が多いけれど、それは本来の解釈ではない、と言っていた。
ヨガが素晴らしいシステムであることに違いはない。そもそも宗教と同一。私たちがヨガととらえているものはそのごく一部に過ぎない。
しっくりくる人はいい。心身がやすらぐ人はいい。
ブームだからとか、あの人がやってるからとか、覚者、スピリチュアル・リーダーがすすめているからとか、昔からあるものだから、という視点の場合は少しだけ慎重になる気持ちの余裕を大切にしたい。
これは本当に自分に合っているのか、と。
インドの覚者にはヨガを否定した人物だっている。
何がベストかは人それぞれだ。
少なくとも私は情報は、複合的にいいとこどりをした方がいいと感じている。
道を極められない人間のたわごと。
※ 追記
最近健康法がにぎやかです。一時「糖質制限」があんなにさわがれたのに、ここにきて「糖質制限は危険」との情報も出ています。
ダイエット法も含めて次から次に情報が動き回ります。
そもそも健康情報はメーカー主導の声もあるくらい。
楽しければいいと思います、何を試してみても。
けれどそれで体調を壊した時は、すぐに意識を切り替える勇気を。
これをすればガン予防につながると考え方を提唱している団体の何人もの人がガンで亡くなっているという記事を目にしたことがあります。
ヴィーガン、植物性食品しか食べない完全菜食主義者の男性がガンで亡くなったという話も。
一旦声をあげてしまうと引けなくなるところがあるのかもしれません。もちろんそれらの方にとってはそれが人生の課題だったのかもしれませんから他人がとやかくいうことではないかもしれないけれど。
その道を極めたい人は別にして、普通に健康でいたい、普通に自然体でいたいと思う私のようなタイプの人は、よほどの確信がない限り一つの方法に深入りしない方が安心ですよね。何かあった時のつぶしがききます。自分の体調だってずっと同じわけではないし、時に体質だって変わるのですから。何より地球のエネルギーはどんどん変わっているのです。ま、私は、そう思う、ということですけれど。
一度しかない人生です、人のやってることに口を挟むより、自分が何を楽しみたいかにフォーカスした方がいいかな。
私は情報は適当にフュージュン・タイプ。
その時々でうまい塩梅を自分で探りだすのが楽しいから。
そういえばホテルでオムレツを創ってもらう時、私はそこに並んでいるトッピング具材はほとんど「all」と言ってお願いするタイプです。
ただの欲張り ?