物書きがこんなことを言っていいのだろうか。
最近、言葉の綺麗な本にほとんどハートが響かなくなった。
理由は簡単。その著者の潔さが感じられないからだ。
ハートの言葉が聴こえてこないからだ。
こう言ったら人に受け容れられるだろう、こう言ったら反感を買わないだろう、こういったら笑いを取れるだろう。
そんなビクビク感が前面に出ている。
さらっと流れるような文章。
どこかでハートがキュンとするような文章。
しっかり計算されている。
もちろん小説は例外だけれど、特に女性向きに書かれた「こころ系」「健康系」の本にこの手の文章が多い。
では、あなたは、と聴きたくなる。
本当に本音で生きているのですか。
あなた自身のハートの声を大切にしているのですか。
優等生の仮面をかぶって、こころは泣いていませんか。
おそらく、それは過去の私への問いかけだ。
私は文章のうまいライターとして、ものすごく重宝された時期があった。
誰の原稿でも真似できる。
つまりその人になりきって文章が書ける。
一つの特技だと思う。
物書きの人ならわかると思うけれど、文章は流れだ。
一旦書き出してしまえば、そのリズムが自然に浮かび続ける。
そこに編集者、校正者の赤、が入る。
文法上はそちらの方が正しいのかもしれない。
でも微妙にエネルギーは変わる。言葉一つとったって、こだわってその言葉を使っている時だってあるのだから。
それでもできあがってしまえばまとまりの良い文章を書いた錯覚に陥る。
以前の私は確かにそうだった。
何より読み手に理解してもらえるように、と。
最近、綺麗な優しい言葉を並べた本にほとんどハートが響かなくなったのは、私自身がもうその必要を感じなくなったからなのだろう。
どんなにわかりにくい表現だって伝わるものはある。
それがハートからの声であればなおさらだ。
せっかくハートがキャッチした感覚を頭でいろいろ操作する必要はない。
物書きにはその人ならではのセンスがあるのだから。そのセンスこそ、その人の才能なのだから。
少なくとも今の私は、時々カチンとくる表現がある本、耳が痛いです、何こいつ、性格悪い、と感じる文章の方が断然ハートに響く。
カッコよさを感じる。
そっか、これだけカチンとくるということは、それが私にとっての真実だからだ、とわかるから。
何よりコビがない、本気感がハートに突き刺さる。あなたがどう思おうとそれは自由ですが、私にとっての真実はこれですよ、と。
変わることができて良かった。
あのまま、文章がうまいだけの物書きで終わったら、私のハートがかわいそうすぎる。
書きたいことを書く。
それが物書きの使命だ。
事実関係が間違っていて、校閲者の指摘が入るのは当然のこと。
表現の好みは表現の自由でもある。
編集者さん、そのことを理解してお付き合いいただけると嬉しいです。
※追記
メールがきてガッカリすることがあります。
この人は、何を求めて、このような文章を書くのだろうと。
自分がないのです、何かの本、どこかのサイトからそのまま引き抜いたような言葉ばかり。
文法はあってるけれどハートの温かさが感じられません。
ということはものすごく自分を抑えているという証拠です。
誰だって人から好かれたい。嫌われたくない。自分を承認してほしい。
その先にさらに自分らしさがある文章が私は好きです。
本気でコミュニケションを取りたがってくれているのだな、とわかるから。
相手によりけりでしょう。
少なくとも私は私の顔色をうかがったり、空々しい綺麗な言葉の羅列は、「もういいです」と言いたくなる方です。
上手な文章より、熱かったり一生懸命だったりな文章が好き。
その人の命を感じられるから。
こころの豊かさを感じられるから。
自分を大切にしている人なんだな、って。
私もまだ以前の癖で取り繕った文章を書く時があるので、そういう時は、もう一人の自分に「ダメダメ、本気の方がかっこいいよ」と叱ってもらうことにしています。
持つべきものは友ですね。一生絶対そばにいてくれる心友。心友はこころの中に住んで私たちをずっと見守ってくれています。私たちの幸せのために本気で生きてくれている。