ビオラとチューリップの寄せ植え、生命を語る

わがベランダにはたくさんの寄せ植えがある。

 

その一つがビオラとスイートアリッサム、そしてチューリップの球根の寄せ植えだ。

 

ふと感じた、土の中に埋もれているチューリップの球根の息吹き。

 

目に視えるところではチューリップは存在していない。

 

土の中では「種」として、その発芽というショーの成功のために、黙々と準備を進めている。

 

目に視えるビオラの生命力と目に視えないチューリップの生命力と、それが同時にあの小さなコンテナの中で共存していることの素晴らしさ。たくましさ。美しさ。

 

私たちの世界は本当はこんなにも美しい。

 

ビオラが「あなたなんか出てこなくていいのよ」とチューリップをたたいたりするだろうか。

 

スイートアリッサムが「あなたなんかに負けないわ」とビオラをやっつけようとしているだろうか。

 

チューリップが「君たちの命はやがて尽きるのさ」と虎視眈々と自分だけの生き残りをもくろんでいるだろうか。

 

すべてが同時に進行している。

 

それぞれはそれぞれの世界の中でその時のベストだけを視ている。土という母体の中で。同時に有機的な生命体を彩りながら。

 

私たちの身体の中も同じかもしれない。

 

菌が私たちを支えてくれている。菌と共に私たちの細胞は存在していたはずだ。

 

どこかで「敵対」「排除」という意識が芽生え、以来、さまざまに共存関係が破壊された。それによってアンバランスが進み、結果、私たちは自分たち自身が苦しんでいる。私たちを苦しめているのは、他ならない自分自身だ。

それさえ、受け容れられずに「アイツのせいで」とまた外に敵を創り、その敵を排除しようと力を使う。

 

自分自身の攻撃性が原因だと気づけば、対立の関係はすぐに協調に変わるのに。

 

わが家の寄せ植えは静かに黙々と生命を営んでいる。そこに敵意や攻撃性はみじんも存在しない。ただ在るだけ。

 

それが一番強くて一番美しい生命の自然なあり方だ。

 

人との関係の中でその実現を目指すのなら、まず自分の中でその世界を構築する。

 

やがてそれが外の世界へと映し出されて世界の様相は変わる。

 

その日がいつ来るのかわからない。

 

黙々と準備を進めるしかない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

※ 追記

 

当エッセイは一回も文字、文章を直していません。自動書記に近いのかもしれません。意識はあります。

 

私の中の精神的師が変わったようです。

 

この時の「師」は外にいる誰かではなく、自分自身の中にある意識体、意識エネルギーのことを言います。

 

誰、ということより、どんな意識を活性化したいと思っているのか、その「師」の特徴が視えてきます。

 

誰、にこだわっている限り、真のマスター、真の師はあらわれてくれません、過去の経験から。

 

以前お話しましたが、「ですます」調で書くと、私の場合文章がまどろっこしくなります。

 

おそらく「ですます」調は人の目を意識して書いているからだと。

 

今後、当エッセイがどの方向に向くかわかりません。

 

ただ書きたいことを書きたいように書きたい言葉で書いていきます。

 

本エッセイを書いているのはまぎれもなく、男性のマスターですよね。もちろん彼には女性性も男性性も備わっていて。

 

 

 

 

 

 

 

 

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