ある出来事が頭にきて仕方ありません。
キレてはいませんが、むかつく。
まずこのむかつきをずぅっと感じていました。
するとなんとなく怒りのフレームが視えてきたのです。以前も同じような体験をしてその時の怒りが昇華しきれていなかったから、という物理的事情とは別に、「そっか、淋しいんだ」とふと。
私は相手の人に「わかってほしい」「認めてほしい」と思っていて、その期待通りの反応がかえってこなかったことに対して淋しくて淋しくて仕方ないんだな、と。
その淋しさの大元は分離の淋しさ。
なんだ、結局なんだかんだ言ったって私たちは分離の存在なんだ。
きっと分離の痛みを感じないように抑圧し続けてきたのでしょう。そこにスイッチが入ってしまった。それが結果「怒り」という現象になってあらわれた。
だとすると「人はみんな淋しいんだ」という事実をまず受け容れればいいんじゃないでしょうか。
自分も淋しいけど相手も淋しい。淋しくない人なんてこの世にいない。
少しだけ分離感が薄くなります。
では相手の人は私に何を伝えたかったのか。私の味方だと想定して、私になんのプレゼントを届けてくれたのだろうと考えてみました。
すると怒りはなくなりました。元々怒りを抑圧しないで感じきっていたことも関係していますが、さらに次なる怒り、つまり次なる淋しさは浮かんでこなくなったのです。
なるほど。
私たちの怒りの本質は淋しさだというのは一般的によく言われるところですが、その淋しさの根源は「分離の痛み」の未昇華にあるんだということに気づきました。
もちろん相手の人も同じはず。
すると分離の痛みを共有する仲間だという位置づけに変わります。
「ムカツク」と感じていた感情とは異質のものです。
だからと言って無理やり「大切な仲間」と思う必要はない。
大元のところでつながっている大切な存在ではあるけれど、その人の言動によって一時的にでも不快感を感じたのは事実。その不快感は私自身の問題で相手の人にはなんの責任がないとしても、私自身の気持ちがクリアにならない限り中途半端な良い人モードは自分のためにも相手のためにもなりません。
と書いているうちにもしかしたら、と感じたのは、私は相手の人の「わかってくれない」「わかってもらえなくて私は淋しい」という想いを投影されてしまったのではないかということです。もちろん私の中にも同じ感情があったわけですけど、相手の抑圧が強ければ強いほど私たちはその意識の影響を受けやすくなってしまいます。
なるほど。
相手の人の強い孤独感を投影されていたんだ。
投影の原理は心理学の基本の基本とも言うべき考え方。私はいつも自分の中にそのエネルギーがあると捉えているけれど、相手の人にはそういう認識はありません。自分の心に一見「闇」があるとは思っていないタイプ。
ということは彼女の抑圧エネルギーは半端ないことがわかります。善悪ではなく、それが事実。
彼女は一見「ネガティブ」なエネルギーを無意識のうちに他人に投影しまくっているタイプです、無意識のうちに。
そういうタイプに対して私たちがどうすればいいか、と言うと「あの人と私は別」と明確に意識の境をつけることで投影の度合いが少なくなります。当然「怒り」の度合いも「ムカツキ」の度合いも少なくなります。それでも投影された場合は、その感情を排除するのではなく、認めて感じて受け容れればいいのです。
なんだ、それでは分離を進めるだけじゃない ? と感じたとしても、自分を守ることはとても大切です。相手にその認識がなければなおさらです。自分を守ることが結果、相手を守ることにつながります。
エネルギーのダダ漏れは一見「良い人」「良識的な人」ほどその傾向が強く視られることが少なくありません。淋しいんです、その人自身ものすごく。だからエネルギーを媒介にしてたくさんの人とつながろうとしている。
その人は自分を怒らせようとしているわけではないのに、なぜか「ムカツク」。
そういう時の一例として、こんなケースも考えられるよ、というお話です。
また、こういうエネルギーを投影されやすいという自分の性質もきちんと把握しておくことが必要です。その人自身、無意識のうちに一見「良い人」を演じている可能性があるからです。
人は自分の鏡。私たちは他者を通して自分を視る生き物です。
怒りを良くないものとして抑圧したり、無理やりのポジティブ・シンキングで自分の感情をごまかさないで、すべて認め、受け容れる。自分の中に起こった感情の責任の一旦は必ず自分の中にありますから。
感情について優劣や善悪のジャッジは必要ありません。
怒りがわいたから怒りを感じる時がきた。それだけです。
ここまで書いたらさぁっと優しいエネルギーが身体の中に流れ込んできてくれました。
今回の「怒り」、昇華、成功したみたいです。
彼女の孤独感は彼女自身の課題です。彼女に頼まれてもいないのにその孤独感をなんとかしてあげたいと感じるのは「干渉」であって真の優しさではありません。きちんと線を引いてあげることこそが真の優しさなんじゃないでしょうか。
視方を変えて、たくさんの淋しい人にぶら下がられたら、自分の身がいくつあっても足りません。かつての私はそういう人間でした、本当に大変でした。それは私自身が強い孤独感を抱いていたからです。やっと最近わかりました。
彼女は私に「線引き」の大切さを伝えてくれたようですね。同時に私の中に残っている「孤独感」を統合させてくれたのかもしれません。
彼女の今回のお役目はそういうことでした。そのことに対して怒りを感じたり持続させる必要はまったくないですね。
「ありがとう」とともに終了 !
※ 追記
当エッセイ、怒りの後で執筆しているため、筆の流れはスムーズではありません。
ところが、エネルギーはものすごいものがあるんです。
これはあちらの世界の基準のようですが、綺麗な言葉、綺麗なフレーズを連ねるより、一見「闇」モードのきついと感じられるかもしれない言葉を書いた方が波動の上昇率が高くなります。
それだけ「浄化」が進んだということなんでしょうね。
「闇」こそ積極的に感じたい私たちのリソースなんですよね。