クリスマス・プレゼントが続々と届いています。
物質ではなく、私のこころ、意識の中に。
前エッセイ『スーパー権威主義のごうつくばり』の続編とでもいうべき、次なるプレゼントは「守銭奴」でした。
しゅせんど、と読みます。お金の奴隷のような意識の人たちを指す言葉です。すべての価値基準がお金によって決まるという考え方。
さすがに今まで「守銭奴」意識は浮かんだことがありません。
ケチとかせこい、とかは「もしかして」と感じることもあったので統合していました。
おお、今度は守銭奴か、と笑ってしまいました。
楽しいですね、潜在意識と向き合うのは。
私たちが自分で意識できている「顕在意識」は、一説によると全意識の1~2割と言われています。それ以外の9~8割が無意識の部分の「潜在意識」。潜在意識によって私たちの人生は牛耳られている。その潜在意識の意識化が私たちの人生を好転させる手法の一つ、という大きな流れを説くのが今の考え方の主流のようです。
主流と書くと語弊があるかもしれませんね。そういう考え方のグループがある、ということです。
ことの真偽はわからないにしても、私は「へぇ、そうなんだ」と感じたので、できる限り潜在意識に向き合うようにしています。潜在意識は膨大なので、実のところまだまだ、です。
少しずつ少しずつ、あんなこと、こんなことがさぁっと浮かんでくるようになったので、それを一つずつ自分の意識として統合します。切り捨てるのではなく。
ここがポイントです。以前の私は、ネガティブが浮かんでくると、それをポジティブに変換しなければ、という考えにのっとっていました。ものの本によると、そういう考え方が多かったので。
なんかおかしいな、シックリこないな、と感じたのが二年前のこと。
そこで考え方を真逆にシフトしました。自分自身の道、という見方でいうと、良かったみたい。こちらの方法に変えたら、するする、するすると何かがほどけ始めてくれました。
つい先日、「あ、この方法で良かったんだ」と答え合わせをしてくれる書籍に巡り合いました。以前の私には理解できなかった内容です。
今はこうなのね、と自分と確認をし合いながら、自分に必要な方法論がベストのタイミングでベストの状態でやってきてくれるもんなんだな、と、そんな基本事項も再確認させてもらえました。
さて、「ケチでせこい守銭奴」。私は小さい時から経済観念がなく、「なんとかなるよね」といつもお金のことから目を背けていたようです。
お金への執着がMaxになった人が「守銭奴」。
私のように一見執着のないように感じる人も影の「守銭奴」なんだと。
この仕組み、わかります ?
お金と対等の関係、適切な関係でなく、私の場合はお金のことを考えることから逃げてお金に執着していた、ということみたい。
へえっ~~ ?
ビックリしませんか、このエネルギーの法則。
お金に執着する人は「お金依存症」。
お金に執着することを毛嫌いする人は「お金反依存症」らしいのです、エネルギー的に視ると。一般に言われる「アンチ」の正体はこれです。
「私、あの人、大っ嫌いなの」は本当は「あの人が大好きな自分」がいて、それを認めたくないだけ。そう、相手の存在に依存しているその事実から逃げているんです。
思い当たることありませんか ? 私にはまだまだあるかもしれないな。
私たちの意識は例えば「陰陽」だったり「光と影」だったり「男と女」だったりのように対極のある意識と必ず同量のエネルギーが存在していると言われています。
ということは「お金に無関心」の私の意識の裏には「ものすごいお金に対する執着心」が隠れていたということになります。その後者の部分をいけないものとして自分の中に抑圧し続けてきた。
それが私の中から浮かんできてくれた「ケチでせこい守銭奴」という言葉につながるわけです。
もう、ここまで行くとゲームです。楽しくて仕方ない。
自分の闇とか影とか「Welcome !」状態が続いてしまいます。
コツをつかむと簡単です。一見ネガティブの統合の仕方。
統合すれば意識がフラットに近づく。
拒否すれば意識のアンバランスが大きくなる。
この考え方にツールは必要ありません。少しの手間と、一見ネガティブを感じるその不快感は必要ですけど、一過性ですから、自分にとって大きなストレスは残りません。
とすると「少しの手間」を自分にかけてあげるかどうか、という選択の自由が生まれますね。
外側から、あるいは身体のメンテは一生懸命やるのに、自分の内側のメンテはまだちょっと。という場合が多いかもしれません。
これからのトレンドにはならないでしょう。地味ぃな作業だから。
自分の中に光を見つけたい人にはもってこいの方法だと思いますけど、あなたはどう感じますか。少なくとも私にとっては、今までのどんな方法よりも合っているみたい。
身体の健康法と同じです。心の健康法も人それぞれ。みんな同じなんてことはなくて、だからみんなそれぞれに大切だということなのでしょう、きっと。