時間の感覚が変わり始めています。
時間への、でしょうか。
最近、家の近所で動き回るときにはできる範囲で歩くようにしています。今までは自転車がほとんどでした。
歩くことを習慣づけると時間がゆったり流れるようになりました。
例えば、駅までの往復は私の足だと30分かかります。お買い物をすると、+15分、30分という時間が必要です。
今までだと「30分もかかった」「30分も歩いた」。
時間を浪費した感じです。
最近は「30分歩けた」。万歩計だと「6000歩も歩けた」。
私的にみると、マザー・アースとの対話の時間が「30分もあった」。
マザー・アースに「6000歩分ハグしてもらった」。
贅沢に時間を過ごさせてもらった感じ。
今までの私は時間に追われて生きていました。
社会人になって、イベントやラジオ番組などの生放送の現場での仕事がメインで、常に「オンタイム」。秒刻みでの現場も少なくありませんでした。
フリーになって書き物をするようになり、いつも締め切りに追われて生きてきました。カウンセリング・セッションなどの予約時間は、きっちり守らないとなりません。息抜きのスポーツ・クラブだって、時間割にのっとってプログラムが組まれています。
私の実家は表具店でした。職人だった今は亡き父の口癖は「貧乏暇なし」。
「貧乏なんだ。だからいつも馬車馬のように働いていないとならない」
あるいは
「こんなに忙しく働いているのに貧乏なままだよ」
父の頭の中ではどちらの感覚だったのでしょう。いずれにしろ、その信念体系は私の身体にもいやというほどしみついてしまっていました。
「暇」であること、時間にゆとりのある事を「いけないこと」「自分にとっては恥ずかしいこと」のように感じる心の癖がついていたのです。
いつも時間にバタバタと追われていなければならない。
それが私にとってのデフォルトなんだから、という感覚です。
「忙しい」とばかり口にしている状態は、本当は「心を亡くしている」ということなんだよ、という考え方があっても、「忙しい、忙しい」と走り回っている方が自分に合っているとでも感じていたのでしょうか。
その反動なのか、私はリゾート旅行に行くと、基本何もしません。秒刻みで動きまわるなんてもっての他。
毎回、「何もしなかったね」で終わる旅ばかりです。
時間がゆったり流れるというのは、実に贅沢な気分を味わえます。
私たちの一生はどうやったって限られています。生まれた瞬間から限られた時間へのゴールに向かって走りだします。
学校に行くまではそれでも私などは割とのんびり過ごせた方かもしれません。
学校に行くようになって「時間割」というものに合わせて行動を起こさなければならなくなり、大人になれば秒刻みでスケジュールを消化しなくてはならなくなり、ある程度年齢が行くと、今度は残された時間をバタバタと走らなければいけないような気分になり。
それもまた一つの楽しみ方なのでしょう。
私に限っていうと、時間の縛りにしがみついていたのは私自身だったということに最近気づきました。
時間との適切な付き合い方ができない。幼いころからの習慣で。
少しだけ目線を変えてみたら、新たな習慣はすぐに作ることができました。
目線を変えて習慣を変えたら、時間との関係も適切なものへと変わってくれました。
あくまでも私が主なのです、時間に縛られるのではなく時間はどうとでも使える。その調整に少しばかりのエネルギーが必要になることがあるとしても。
私は元々が何かに縛られるのがいやなタイプ。
時間も同じだったはず。
それなのに「縛られる」自分を選択して、「ああでもない」「こうでもない」と言い続けてきたようすです。
この後私に残された時間はどれくらいあるのでしょう。
バタバタ過ごしても、ゆったり過ごしてもその時間そのものは変わりません。
バタバタ過ごすと、アドレナリンが出るはず。
ゆったり過ごすと、快感ホルモン系、幸せホルモン系が出るはず。
私のハートは断然後者がいいと言っています。
それでも元々が気ぜわしい性格だからバタバタ過ごすことがゼロになることはないはずです。
けれど、バリエーションの拡がりを自分自身にプレゼントできたことが、ここ最近の大きな収穫となりました。
30分、マザー・アースと対話するため、ただそのためだけに歩く、時間を使う。
マザー・アースとの対話は自分自身との対話でもあるわけで、つまりは自分自身のためにゆったりとした時間をプレゼントする。その間、地球からの慈愛、滋養のエネルギーをいただくことにもなります。時間の深みが二倍にも三倍にも膨れあがります。長さではありません、その質や奥行きが増すのです。
そういう時間を意図的に数日過ごしただけで、子供のころからしみついていた信念体系がひよこっと変わってくれました。
まだまだすぐに天国に行く、ということもなさそうですから、自分のライフ・スタイルを変える良いきっかけにつながるのではないでしょうか。
私は馬車馬のように走ることも好きだけど、ゆっくりと「ふぅ」と息をつくのも大好きなんだよ、お父さん。
天国にいる父に対する、遅い反抗期がやってきたのかもしれませんね。
自分の人生ですから、好きにしないと。いつからでも遅くはない。遅すぎるなんてことはないんです。
※ 追記
時間をクリエイトする、という言葉が浮かんできました。