「罪悪感」と聴いてあなたはどんなことを感じますか。
調べてみました。
「罪悪感」とはそもそも宗教上の罪の意識と関係したもののようです。
私たち日本人は特別な宗教を信仰しない「無宗教」を自認している人が少なくありません。ところが根源のところで宗教上の罪の意識とほぼ同意義とも言える「罪悪感」の概念に縛られている。その事実がわかりました。
個人的に解釈すると、この世の仕組みはそもそもが宗教的概念によって創られているものだと言えなくはない、ということが浮かびあがりました。
数年前、スピリチュアルな考え方のサイトをのぞいていた時、「罪悪感など手放しなさい」と書いてあることが多く、「そうか、罪悪感は良くないものなんだ」と私の顕在意識が認識したことをはっきりと覚えています。
「罪悪感はいけない」と認識すればするほど抑圧が生まれ、結果的に「罪悪感」たっぷりの潜在意識になることに気づいたのは、ここ最近のことです。
私の場合は「罪悪感」を排除しようとする意識がかえって「罪悪感」に依存する形になったのでしょう。
罪悪感があることによって、何かメリットはなかったのでしょうか。
罪悪感を膨らませたくないという意識から、少なくとも法に外れたことはしない、という抑止力が生まれました。あえて人を困らせたり、苦しめたり、などの加害者になる機会も少なくすることができました。もちろん無意識のうちに、誰かを困らせたり苦しめたりはしていたのでしょうけど。
少なくとも「罪悪感」はいけないばかりのものではありませんでした。使い方次第では自分の暴走を調整するツールになることが明確になりました。
なるほど。
私は元々抱かなくてもいい「罪悪感」を感じやすいタイプでした。数年前、その罪悪感をジャッジする考え方に遭遇して、罪悪感をなくそうと思ったことで、もしかしたら前よりも強い罪悪感を感じるようになっていたのかもしれません。
リセット・ボタンを押しました。
罪悪感はいいだけのものではなく、だからと言って悪いだけのものでもなく、ただ「罪悪感」という概念が存在しているに過ぎません。自分の中で「あ、今、罪悪感がふくらんでいるな」と感じたら、自分の内に入って、なぜそれが膨らんでいるのかを顧みればいいことだし、誰かがあまりにも罪悪感を感じながら生きているのだとしたら、何かの機会にそっと「そんなに罪悪感を感じなくても平気だよ」というエネルギーを送ってあげればいい、という考え方にたどり着きました。
罪悪感もまた大切な私たちの仲間なのです。
罪悪感という文字の並びが私たちにネガティブなイメージを投げかけているのでしょうね。
ということは私たちは「罪」や「悪」に対して、必要以上に「影」を感じすぎていたのかもしれません。
罪悪感と仲直りできて、ホッとしました。
自分の中にある意識や概念に「これは要る、これは要らない」と選別していく必要性はありません。
すべてフラット。
すべて自分の仲間、自分の一部。
何かを特別視する必要がないように、何かを敵視したり、卑しんだりする必要もない。
今の私はそう感じています。
このように私たちの意識は必ず変わります。以前は「〇」と感じていたものが「△」と感じたり「□」と感じたり。
これを「変容」と言います。「変容」を恐れる必要はないよ、と私の中の何者かが大声で叫んでくれているみたい。
私たちには、たくさんのリセット・ボタンを押すチャンスが与えられています。
リセット・ボタンは自分でしか押すことはできません。
安心して前進を楽しみませんか。自分自身の足で。