◇ 水、海との和解
いのちの洗濯。
今回は、ルーフ・バルコニーにジャクジーのある部屋に泊まった。
私は泳ぎが苦手。海が大好きなのに、シュノーケリングをしていておぼれかけた経験がある。座りながら水上スキーをやって転んでしばらく水中に逆さづりになったこともある。
その、そもそもの「恐れ」は人類すべてに共通する「恐れ」、「水没」という恐れに直結しているらしいと気づいたのが旅行の数日前。
今回の旅には、「水に関するカルマ、トラウマの昇華」という課題があることに気づいた。
なるほど。どうりで私には水難の相があった。
海が大好きなのに、海=恐怖の象徴という刷り込みがなされているらしい。私にとってその海が美しければ美しいほど、その恐怖も半端ではない、との潜在意識のあり方に驚いた。
そういえば、生まれてはじめて美しい海と遭遇したのがサイパンだった。サイパンに強いシンパシーを感じたのは、「好きだけど怖い」という潜在意識が私の中で葛藤を起こしていたためだろう。
「好きだけど怖い」はものすごく根深いところでおそらく万人に共通している意識だ。
「好きだけど怖い」
「怖いけど好き」
実は人間にはこの両方の意識があるのだと感じた。
「好き(だけど怖い)」
「怖い(けど好き」」
( )の中は潜在意識。例えば私の場合、海は「好き」が顕在意識となり、「怖い」が潜在意識にある。おそらく、死は「怖い」が顕在意識となり、「好き」が潜在意識にあるのではないか。死を「好き」と感じるなんておかしいと思うかもしれないけれど、私たちは「元に戻れる」という意味で、決して死が嫌いな生き物ではないはずだ。
話を元に戻そう。
今回は「水没、水難に関する過去生でのトラウマ」をしっかりと統合して、昇華するための旅でもあった。
「水没、水難」の後は、「蘇り」、そう「再生」のドラマが繰り広げられる。逆にいうと、「再生」のサイクルを踏み出すためにはきちんと「水没、水難」への恐れを統合しなければならない。
「水没、水難」=「死」だ。私は一旦「死」を感じきらなければならなかった。
その場所に選ばれたのが、サイパン同様海の美しいグアムだったというわけだ。サイパンとは海続き。世界と海続き。同時に深いところで世界と、地続き。
グアムで滞在先に選んだホテルは、旅行中に知ったことだが「水をテーマにした」ホテルだった。
今執筆していて気づいたこと。
生命女神の像は、台風被害の後に創られた像だ。風の害もあるだろうが、水の害もあったはず。
生命女神はこの地球を創った。
地球は水の惑星だ。
その地球で、水害が起きた、すべての命を飲み込むほどの猛威をふるって。
その時の恐怖が私たちの命にしみ込んでいる。死の恐怖。それを統合すること。それが今回の旅でのミッション。
私の最愛の猫、「海・かい」、そして「海・うみ」。
今私が住んでいるところは「海」のすぐそばで、住所には二つの「海」の文字。
どれだけ私が海を好きで、どれだけその海に飲み込まれた恐怖が強いかがやっとわかった。
私は海が好きなだけではなく、とことん海が怖いのだ。
そのことを我が身に刷り込むかのように、屋外ジャグジーで何時間も泡ぶろにつかっていた。
水への恐怖をしっかりと統合・昇華するために。
そのためにこのホテルに呼ばれ、この部屋に招かれた。
バルコニーでの時間はどこまでも快適で、真っ黒な大アゲハが何回も私たちの周りに集まってきた。時に、黄金色のようなバッタなのか、あるいは蝶々とトンボのミックスのような虫が何度もやってきた。
どちらも日本ではみたことのないタイプ。
彼らがこちらの世界の生き物なのか、あちらの世界から飛んできているのか、そんなことはどうでも良かった。ただ羽の生えた生き物が私たちの周りを旋回している。それだけだ。
ふやけるほどジャグジーに浸かりながら水平線をながめているうち、こんなに海が好きで、こんなに海に愛されていたと感じていたのに、潜在意識にはそれと同じだけ「海と水に対する恐怖」が息づいていたことをやっと認めて受け容れることができた。
普段はリゾートを訪れても海に足を入れることもないまま、旅を終えることも少なくない。
今回はこの後、海にしっかりと足を入れることができた。今まで、サイパンの海の方が綺麗だと思っていたけれど、それは思い過ごしだった。グアムの海もまた美しい。
海はただただ優しく私たちを包んでくれた。私が海を心底恐れていて、それを抑圧し続けてきょうまできてしまって事実も含めて。
彼らにあるがままを受け容れてもらう。
それが私たち人間の最大の歓びなのかもしれない。
リバーシング。この世での命の源に還る旅。
グアムの海はどこまでも美しかった。これがミクロネシアの実力だ。
地球の実力だ。
※ いのちの洗濯 グアム編は1~6まで続きます