◇ 生命女神との出逢い
いのちの洗濯をしてきた。
今回は「グアム」。
私たち夫婦は旅行好きで、たいていはリゾート行きを選ぶ。昨年は、ちょうど今頃マカオに行った。
マカオはリゾートではない、海はあるけれど。季節もほぼ日本と同様で、旅行の間、ひたすら歩いた。歩いて歩いて歩き回った。あんな旅行は生まれてはじめて。
マカオ旅行のテーマは「融合」だった。
東西の融合、新旧の融合、自他の融合、などなど。ひたすら歩くことで大地と接点を持ち、そこから何かが混じり合う力をもらった旅だった。
私の場合、旅行に行くと必ずあちらで大きなテーマをいただく。行ってみてはじめて、なぜ今回はここなのか、がわかるという仕掛けになっていることが多い。
今回の「グアム」はなぜか事前にテーマがわかっていた。
「再生」「生まれ変わり」
破壊後の、創造のサイクルだ。
すべて、その目的のために仕組まれた旅。私のお誕生日祝い旅行ということもあって、そのテーマは「まさしく」だった。
数か月前、旅行の候補地はタイとベトナムとグアム。なぜかグアムに決まった。
主人も私もグアムにはあまり思い入れがない。私は完全なるサイパン派だ。あえて「派」をつけるとすると。私にとってサイパンは魂のふるさととも言えるくらいシンパシーを感じる場所。
そのサイパンに行くのに直行便がない。いくら大好きなサイパンでもまる一日かけて行こうとは思わない。私の「大好き」なんてそんな程度なのかもしれない。
「同じミクロネシアだからサイパンの分まで楽しんでこようよ」
わけのわからない言い訳をして、グアム行きを主人以上に楽しみにしていた。
何かが起きる、とわかっていたからだ。
成田から三時間ちょっと。グアムの魅力は何と言っても近いというお手軽感。飛行機もエコノミー席でもせまいと感じない。身体の小さい私には十分な広さがそこにはある。本を読むでもなく、眠るでもなく、なんとなくそこにいた。瞑想に近い状態だったようだ。あっという間の三時間半だった。
「生命女神」
空港を出た瞬間、ある像が私にサインを送ってきた。前回グアムに行ったときには目にも入らなかったものだ。車で迎えに来てくれたホテル・ステッフに「あれは何 ? 」と聴くと「知らない」と露骨にいやな顔をされた。
ホテル・スタッフが車を回す間、「説明を読んできて」、と主人に頼む。主人の話ではどうやら中国系の人たちがさまざまな想いを込めて建てた像らしいということがわかった。
ホテルについてから調べてみると、確かに中国系の「力」を指し示す目的がこめられているものらしく、島の人にはあまり喜ばれていないとも書かれていた。
そういう視点で視たら、話はそこで終わってしまう。
私はしつこく調べ続けた。情報は限られていたけれど、なんでも中国にも「地母神」信仰のようなものがあるらしく、その女神がすべての生き物を創り、その女神像をグアムに創ることで、その地の再生を見守ってもらおうという意図で創られたもののようだ。私には見え方の少し違う「観音さま」のような意味合いが感じられた。
いずれにしても「生命女神」という名前だけで、私にはドンピシャな感じがした。今回の旅のすべてを象徴するグアムの精霊からの招待状かもしれない。
以前の私だったら、その手の像にはまったく興味がわかなかった。まして地元の人に受け容れられていない「闖入者」のような像には。
今回はまったく違った。誰がどんな思惑を込めて創ったものでも、その像そのものに罪はないし、善悪もない。その像から自分が何を感じ取るかだけ。
私は一目見て「生命女神」が気に入った。
これが今回の旅の幕開けとなった。
いのちの洗濯、という言葉はいつもなら使わない。
当エッセイを書こうと思ったら自然に浮かんできた。
ということは私の命はめちゃくちゃ汚れていたという証なのだろう。
今年の4月、元親友ともいえる友人が突然亡くなった。その直後、主人の父親が老衰に限りなく近い状態で亡くなった。二つの旅立ちを経験して、私自身の「統合・融合」作業はある意味でのひとつの仕上げ段階に入っていた。
ハードだった。私の命の汚れ具合は半端ではなかったのかもしれない。
「統合・融合」は昨年のマカオ旅行のテーマだ。その仕上げにほぼ一年を要した。次は「再生」「生まれ変わり」のための「生命女神」との出逢い。
今回の旅は新たなサイクルの始まりだということがわかる。
楽しくないわけはない。
ミクロネシアにはトータルで十数回は訪れた。想い出は数限りない。
この旅でその想い出が塗り替えられる。初、のできごとがたくさん訪れるだろうことが「生命女神」との出逢いで明らかになった。
※ いのちの洗濯 グアム編は1~6まで続きます