お家ピラティスをやろうと思ったら、パソコンから音が出ません。
いつもは主人のパソコンをスピーカーにつないで、YouTube音声は、そこから流れるようになっています。今、打ち込んでいるこのパソコンとは別のパソコンです。
接触が悪いのか、と何回もトライしてみましたがダメ。
仕方ないので自分一人で記憶をたどりながらやったら、なんとかできました、お家ピラティス。
そっか、これは「パソコンから離れなさい」のメッセージなのね、と感じました。
これは私たち現代人に共通した課題ではないでしょうか。
私はメカ音痴なんですが、仕事の関係上、必要に差し迫られてパソコンに向かっています。ネットでの検索は本当に便利です。以前は山のような資料に囲まれていましたが、今は最低限の書籍だけで十分です。
私自身の執筆のスタイルも変わりました。資料を調べ、一つ一つ事実確認をしながら、が私の以前のスタイルでした。今はたいていの場合は浮かんでくる言葉を自然に手が打ち込んでいる感じです。
きのうのエッセイで「もしかして私は書く瞑想を行っているのかも」とお話しましたが、まさにそんな感じです。
執筆自体はパソコンに頼らざるを得ませんが、調べものの時間がかなり減ってきました。
それでも私はパソコンに依存していたのかもしれません。
YouTubeなんて本当に便利で、最近は好きな音楽もYouTube三昧、ということも少なくありません。一人のアーテイストにつながるとエンドレスで楽しめてしまいますものね。元々音楽が大好きで、以前はCDをかけっぱなしで執筆していたこともあるくらいです。
今、YouTubeの音声が出ないので、一瞬焦ったのですが、なんとかYouTubeなしでもいけました。
ということはもしかしたら、まだまだパソコン依存の時間を減らせるチャンスがあるよ、というメッセージなのかもしれないと感じました。
気持ちの上で一線を引く。
パソコンがないと生きていけない、という想いから、楽しく生きるために道具としてのパソコンに力をかしてもらおう、必要な時には、という想いがふと浮かんできました。
パソコンは便利な反面、誰とでもつながってしまう、というデメリットもあります。例えば何気に送られてきたメールからものすごい邪悪なエネルギーが流れてきたことを実際に経験したことが何度もあります。それは自分の中にもそういう邪悪な面があるからだ、ということに気づけたのはここ最近のことです。
鈍い時には、邪悪なものが飛んできていることにさえ気づけない。するとその後体調が悪くなったりするんです。
原因がわからない。それでネットでいろいろ調べたりして悪循環。
今の時代、パソコン、ネット環境がなくて生きていける人の方が少ないかもしれません。
それでも自分の意思で一線を引くと、また異なるところから、もっと今の自分にあったメッセージが届くようになっているのかもしれませんね。
情報をネットに求めすぎるな、のメッセージ。別の言い方をすると、あなたの中にはちゃんとあなたに必要な情報が伝わってくるような回線があるんだよ、のメッセージではないでしょうか。
私たちに必要なものはすべて私たちの中に備わっている。そのことに気づいて認めれば、それらと上手に生きていくことができる、誰にでもその力が携えられている。
私はここ数年、とにかくパソコンの壊れる回数が多く、そのたんびにお金もかかるし、手間もかかるし、でいやになることもたくさんありました。
その都度「私の命はパソコンに牛耳られているみたい」と感じたものです。
新しいパソコンがやってきてくれて、今度こそ、私がイニシアチブを握るぞと思いながら、いつのまにかパソコンに依存するスタイルにはまっていたような気がします。
パソコン依存 = 他律。
パソコンとの程よい関係 = 自律。
という言葉が浮かんできました。
今までの私は、まったく「他律」で生きてきた、ということが明確にわかりました。
やぁ、ありがとう、パソコン君。
これからは同等、対等のパートナーだね。お互い踏み込みすぎないように、快適な距離感を保ちましょう。