歩く瞑想 2

歩く瞑想。

 

駅までの道のりを歩く瞑想にて往復しました。

 

駅までは往復で30分かかります、いつもは自転車かバスでの移動。そこをいつもよりゆっくりある言葉を唱えながら歩いてみました。

 

途中での体感。

 

木々や草花がなんとなく話しかけてくる感じがします。明確な言葉ではなく、なんとなく。

 

そしてゴミや枯れ木、枯れ草に対しても元気な木々、草花と同じように意識が向きます。ゴミはゴミとして役割があるからそこにいるんだ、という感覚がフツフツとわいてきて、例えば「ゴミ=汚いもの」とか「ゴミ=不要なもの」とか「ゴミの放置=いけないこと」だとかの意識はまったくわいて来ません。

 

ゴミや枯れ木、枯れ草、落ち葉に対して「尊重」「受容」の気持ちがわくようです、ごく自然に。みんな仲間、という感覚でしょうか。

 

駅付近でランチを済ませ、お買い物をして、さらに帰りもゆっくりと歩く瞑想を楽しみました。瞑想を楽しんではいけないのかもしれませんけど、素直に楽しかった。

 

家に戻って携帯の万歩計表示を確認すると大体5000歩くらい。

 

いつもなら、駅との往復の時間もできるだけ短く、と思うのに、「5000歩分も瞑想させてもらっちゃった」とものすごい満足感、充実感です。

 

きょうは朝、愛犬・華実が下痢気味だったので華実と愛猫・海・うみのプチ断食の日としました。プチ断食の日はお散歩には行きません。だったら駅まで歩いてみようかな、がきょうの「歩く瞑想」へのモチベーションです。

 

華実の下痢がなければ、歩く瞑想は行われなかったでしょう。ということは、「歩く瞑想」をプレゼントしてくれたのは華実の下痢便なのかも。下痢便君にもきちんと役割があるようです。

 

こんな風に歩く瞑想は、楽しい時間へとなりつつあります。

 

ただしこれを「絶対しなければいけないもの」と思った時点で、そのエネルギーは「制限」に変わってしまいますから、きっと感じるもの、視えてくるものも変わってしまうはず。

 

時々、「きょうは歩く瞑想モードかな」とハートが教えてくれた時だけ、楽しむつもりで継続していこうと思います。気が変わったらやめてしまっても自分を責めることなく。

 

ちなみにきょうは本来なら「ホット・ヨガ・レッスン」の日です。最初からバス、と決めていました。ヨガ・レッスンを楽しむというより「ヨガ・レッスンに行かなくては」との思いが強いのだろうと気づいたから。それって「制限」を強くするだけで「解放」にはつながりません。

 

そうやって私は私自身を縛っていた「制限」のルールを一つ一つ手放していくことを決めました。ヨガとのおつきあいは13年。長いおつきあいでしたから、手放すことの不安は相当なもの。それでも自分の足で進む時がきたような気がしています。

 

私の何かが変わり始めているようです。

 

 

 

 

 

※ 追記

 

当エッセイ執筆時、背骨の下、仙骨、座骨、第一チャクラあたりにものすごいエネルギーの動きを感じました。

 

 

 

 

 

 

 

 

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