自己愛を取り戻す。
先ほど浮かんできたメッセージです。
前エッセイで私は「自己卑下」が反転して「自尊心を回復」する、という状況が生まれてきた、とお伝えしました。その先に「自己愛」の取り戻しが視えてきました。
自己卑下とは ?
自尊心とは ?
自己愛とは ?
これらの言葉の意味一つ一つ調べてみるのも「自分への愛」なのかもしれませんね。
中でも「自己愛」は少し誤解を含んで認識されていることが多い言葉・概念です。
ハートに少しでも「響き」を感じるようなら、ご自身で「自己愛」について調べてみるとおもしろいのではないでしょうか。
今、こう書いていて「自己愛性パーソナリティー障害」という言葉が浮かんできました。
そうですか、私には自己愛性パーソナリティー障害の気質、資質もあった、ということのようです。これらの「障害」とつく心の特性。私はすべての人に備わっている気質だと捉えているため、正直何が出てきても驚きません。
「あっ、出てきてくれたのね」と感じるだけです。
「障害」の文字にフォーカスして、これらを「いけない」ものとする心の癖が私たちにはついています。その心の癖に気づいてしまえば、これは何かから逃げようとしている「自己防衛本能」だ、ということがわかってきます。
ではどうしたらいいのか、というと、それは「逃げない」ということ、その浮かんできた「概念」に「良し悪し」「善悪」「優劣」などの判断をつけずに、自分の中の一部分だな、と受け容れること。
それだけでその状況、概念は、暴走スピードを緩めたり、必要以上に暴れなくなったりしてくれます。
彼らは認めてほしいだけだから。私たちの承認欲求のようなものです、「私はここにいるよ、こんなことを考えているよ、感じているよ。それが私だよ」と。
そのことに対して「あなたは出てきてはいけないところに出てきているのよ。早く元に戻りなさい」というから、そこに「抑圧」のエネルギーが働いて、結果抑圧された対象エネルギーが大暴れするわけですね。
「自己愛を取り戻す」というメッセージのあとに、「自己愛性パーソナリティー障害」という言葉が浮かんできた、ということは、私の中の「自己愛性パーソナリティー障害」にきちんと居場所を創ったからこそ、「もう平気だよ、自己愛をきちんと取り戻せたね、本来あるべき自己愛に戻ったね」という、明確な意識が伝わってきたということなのかもしれません。
ここでふと気づきました。もしも「自己愛性パーソナリティー障害」で苦しむ状況になってしまった場合は、自己愛の大切さを感じて、あなたにはそれができるから。強い強い自己愛を感じることができるから。という逆説的なエールの意味が託されているのだな、と。
「自己愛性パーソナリティー障害」は一般には欠点ととらえられるものかもしれませんが、その実、大きなメリットであり大切なGiftだということです。
こういう意識の切り替えは、どちらも認めてはじめて成り立つもの。一見ネガティブを切り捨てたり、排除することではありません。それも包括して受け止めることではじめて自分に対する愛情がきちんと育まれるということです。
自己愛。誰の中にも備わっている最高の「救世主」です。すべての人の内に携えられている平等、かつ公平な幸せの種。
種を撒いてしまえばこっちのものですね。必ず収穫の時が訪れるのですから。
※ 追記
当エッセイアップ直前に浮かんできました。
私たちが「いけないもの」「いやだ」と思っているもの。一つ一つつぶしていくとおもしろいかもしれません。
「つぶす」というのは拾い上げる、またはすくいあげてその対象物に「命を吹き込む」、という意味です。「いけない」「いやだ」と感じるその想いの強いものからつぶしていく。
一見「マイナス」の意識の大きいものを認めることによって、強い自己愛が育まれていきます。自己愛を育む「滋養」のエネルギーも私たちの中にきちんと存在している、ということですね。
私たちの「内」は宝の山、リソースのかたまり。そうやってちゃんとなるように、うまくいくように創られているのが私たちの命なんだな、と思うと感慨深いものがありませんか。私だけ、でしょうか、そう感じるのは。