わがベランダに蝶々。
ランチ先から戻ってきたら、ベランダのお花に蝶々がとまっていました。外からその光景を目にできて幸せ気分が膨らみました。家に戻り、枯れたお花をつんでいたら、またも蝶々が。
わが家のお花たちが蝶々に「ここだよ、こっちにおいでよ」って話しくれているのでしょうか。彼らの中でちゃんとコミュニケしーョンが成立しているのですよね。
だとするとあのコンテナ・ガーデン界隈は、それなりのコミュニティーが確立しているということになります。私はその場を提供することとその管理を任せてもらうことで、彼らのメンバーの一員として迎えいれてもらっているのかもしれません。
先日当エッセイでオナガについて『動物が自分の前を横切った時は、その動物のパワーを授かる予兆か、そのパワーが自分の中に芽生えたことの暗示の意味があるらしいのです。』『「オナガドリ」は、カササギの一種で、強くて静かな知恵の象徴だと言われているんだそうです。また、言葉を通じて創造を行う人にとっては「ミューズ」であり、その声はコミュニケーションと創造の象徴としても捉えられているとのこと。』とお伝えしたばかり。
実は朝一番で私の目の前を一羽のオナガが右から左へと横切るように飛んで行ったのです。
ミューズ、女神の到来、かも、と朝からかなり気分が良いのです。
現在、わがベランダでは「キンギョソウ」が花を咲かせ始めています。「キンギョソウ」って春の花のイメージだけれど、昨年ネットで購入した寄せ植えのプランターから一年越しで花を咲かせてくれたのです。
なんでも「キンギョソウ」は明るい、陽の気を放つ、運気の上がるお花なんだとか。「金魚」の「金」は文字通り「金運アップ」を意味しているらしいのです。
一方、「キンギョソウ」の花言葉には「図々しい」とか「騒々しい」とかの意味があるとのこと。
なるほど、私は自分のことを「図々しい」「騒々しい」と思ってその意識を良くないものと抑圧していたのかもしれません。
「図々しい」「騒々しい」って見方によっては賑やかで積極的とかアクティブとか、そんな受け取り方もできますよね。停滞ではなく躍動感。そう考えると「図々しい」こと=一概に「恥ずかしい」ことでもないんだな、とまたまたここで一つの「解放」が生まれてしまいました。
と執筆していたら、オナガ君の鳴き声が。「その通り、Yes !」の意味だったりして。
狭いベランダです。お花の数だって、ほんの数種。それでもここには「自然の楽園」が存在している。お花は調べてみるとたいてい「負を浄化して陽の気に保つ」、そんな働きをもっているみたいです。
何が、ということはわからなくてもお花に囲まれていると「元気」がでてきたりするのはそのお蔭なのかもしれません。
気分がいいなぁ、ポワンとしてものすごく幸せな気持ちです。
ここ数日のエネルギーのものすごいうねりも落ち着いたようです。
私たちの人生にはいつも波がおきていて、その波が穏やかな時もあれば暴れ馬みたいな波の時もある。いつも一定とは限りません。けれど一生つづく波。
その波を「良い」「悪い」と判断していたら疲れてしまうし、まして「良い」「悪い」の判断をしていたところで状況が変わるわけではありません。
波にのっかる。波に身を任せてしまう。波の一部になってしまう。
なんとなく、人生を良い塩梅に進んでいける「秘訣」が少しだけ視えてきた気がします。
抗いは必要ないですね、エネルギーがもったいない。
それでも抗ってしまうところが私たち人間の愛おしいところなのかもしれないですね。