「先生」というとあなたはどんなことをイメージしますか。
なんでもわかっているマスター ?
その道のスペシャリスト ?
先日、いつもお世話になっているスポーツ・クラブのインストラクターの先生とお茶をご一緒させてもらいました。
先生とお話していて気づいたのは、多くのスポーツ・インストラクターが身体を壊したり、あるいはケガをしたことがキッカケになって、あるメソッドにたどり着き、それで体調が改善したことから、そのメソッドのインストラクターになっているケースが多いということです。
例えば太極拳の先生は虚弱体質に近かったけれど、太極拳がそれを改善してくれたと言っていました。ヨガの先生には聞いたことはないけれど、もしかしたら心のバランスを崩したことがキッカケでヨガを始めた、という経緯があるのかもしれません。
ということは。
〇 「ネガ」には「ボジ」のスイッチ
としての存在意義、価値があるのではないでしょうか。
私自身の人生に照らし合わせてみると、愛猫・ぴぴ麿の猫伝染性腹膜炎という病気がスイッチになって、私はペット君のナチュラル・ケアに目覚めました。あの時、ぴぴ麿が病気にならず、天国に還らなかったら、拙著の数々は生まれていなかったかもしれないのです。
「ネガ」って決して「良くないこと」ではないのですね。改めてそう思いました。
さらに先生とのお話の中で感じたのは、先生というのはその道のマスターという意味ではなく、いえ、もちろんそういう先生もいらっしゃるのかもしれませんが、そういう先生であってもその先生の学びは一生続くということです。先生もいつも「学び」の途中にあるのです。
万が一、その「先生」がマスター、あるいはグルと呼ばれるような立場の方だったとしても、「学び」があるからこそ、この世界に残っているわけで、「もうすべて学びました、すべて悟りました、私は100%めざめています」なんてことはないわけです、ご本人がそう主張したとしても。
先生は「先生」という立場からの学びの機会を選択した。けれど「先生」は「生徒」だったり「弟子」だったりがいるからこその先生であって、しかもその先生は「生徒」や「弟子」からいろいろ教えてもらいながら学びの旅を続けている。
ということはすべての人が誰かにとっての「先生」であるわけです。
このことがストンと腑に落ちました。
私の潜在意識にはどこか「先生コンプレックス」のようなものがあって、「先生は完ぺき、完全なる存在であり師であり。そんな先生には私は絶対的にかなわない存在」との「無価値感」、あるいは「焦燥感」などを感じていたのだろうということに気づきました。
先生をどこか「神格化」「特別視」していたようです。
私たちはみんなそれぞれ誰かの「先生」です、ライセンスがあるとかないとかは関係なく。そしてまた「先生」と呼ばれる存在の人たちも、実は「生徒」であり「弟子」のお役目を担っているわけで、お互いの関係に「上下」はありません。あくまでも、アプローチの違いなだけ。
そして誰もが学びのパートナーであり、同士なのです。
スポーツ・クラブのインストラクターの先生たちも「教える立場」であると同時に受講者から「学ばせてもらっている立場」だと認識されているのかもしれませんね。
先生とのお話、二時間もノン・ストップで楽しんじゃいました。お手間を取らせて申し訳なかったな、と思いましたが、私にとってはものすごく有意義な時間だったので、それはそれで必要なことだったのだろうと思います。また、おそらく、ですが、先生にとっても何らかのエネルギーを感じ取っていただいた時間になったのでは、と。
対話によるコミュニケーション、エネルギー交換・交歓によるコミュニケーション。
これって私が行わせてもらっている「カウンセリング・セッション」と同じだな、と今、ふと、気づきました。
なるほど。
「あなたの行っていることにまちがいはないよ、正解なんだよ。自信をもって」
誰かからのエールを受け取るための体験だったんですね。
ありがとう。
私もまた、書くことで、カウンセリングを行うことで、ヒーリングを行うことでたくさんの存在からいろいろなことを教えてもらっている生徒の一人なんだということがわかりました。