ヨガ歴14年目。
身体がかたいので身体をやわらかくして基礎代謝をあげたい。
これが私のそもそもの動機でした。
ところが一向に身体はやわらかくならず、逆の言い方をすると14年前の状態をキープしているのですから、それはそれで一つの柔軟性なのかしら、と感じたり。
このように身体の柔軟性という意味では思うほどの効果が得られなかったのですが、10年くらい前から自己流瞑想をはじめたことも関係しているのか、
〇 重篤な花粉症、克服
〇 メンタルの安定
〇 意識の拡がり、変容
など、その付帯効果のようなものはずいぶんといただきました。
13年間お世話になった先生は、ヨガを完全にストレッチの位置づけでとらえていました。身体を柔らかくしなければいけないという強い思い込みを抱いていた先生です。元々の私の「動機」が柔軟性だったのでそういう先生との縁がつながったのでしょう。
ところが私の中に大きな変化があらわれ、「本来のヨガってそうじゃないのでは ?」という疑問の中でここ5年くらい葛藤を続けながらのレッスンでした。
去年の今頃、「何かが違う」と強く感じ、その先生のレッスンを卒業し、ヨーガと呼ばれる古式ヨガスタイルのレッスンと、今主流の「ヨガ」あるいは「パワー・ヨガ」の真ん中あたりに位置するレッスンを受け始めました。
そしてきょう「いよいよ、レッスン卒業だ」という意識がふいに浮かんできました。
同時に、私は今までヨーガ、あるいはヨガに執着してきた。ヨーガ、ヨガに依存していた、という事実に気づいたのです。
ヨガを楽しみたいから、というより気持ちのどこかでヨガ・レッスンを受けなくては、と自分自身を制限していたこともわかりました。
ヨーガ、ヨガのメンタリティーのコツというか秘訣というか、大まかなその流れの片鱗は大体つかめました。
エクササイズとしてのヨガは行きたくなったら行けばいい、あくまでもストレッチの延長で。
これからはヨーガを通じての真理の探究は自分流で自分なりに進めていけばいい、という結論に達しました。
そもそも「ヨーガ」というのは一つの宗教のようなものです。修行僧が解脱を目的として体系立てたもの。その中のごく一部が今人々が注目をしている「ポーズをとるエクササイズ・ヨガ」です。
ヨガの大元は「瞑想」。そして生活体系というか精神のよりどころをまとめたものが「ヨーガ」の本質です。
私は修行僧ではないので「解脱」は求めていません。言い切っていいのかどうかわかりませんが。またストイックな食事の考え方も今の私には合いません。というかついていけません。
それでも瞑想だったり、あるいは自己の探究の部分でヨーガのエッセンスをお借りすることは私の人生にとって大切なことなのだろうと思います。だから卒業と言っても正確にはスタンスが変わるという意味です。
私の中で「ヨーガ」「ヨガ」とはこうあるべき、というかたい思い込みがあったことに気づきました。
自分にはシックリこなくてもその人が「これがヨーガだ、ヨガだ」と感じていれば、それはその人にとっての「ヨーガ、ヨガ」であることにまちがいはないのでしょう。
すべてが本物なのです。その人の人生における。
ということは私には私なりの「ヨーガ、ヨガ」があっていいのだな、という確信を持てました。
身体がかたいのに柔軟性を求められるヨガ・レッスンに執着する必要はないし、一方、これこそが「ヨーガだ」とこだわっているヨーガ・レッスンに執着する必要もないんだな、と心がするすると解けました。
14年間も続けてきたのできっとヨーガ、ヨガに対する依存のエネルギーは大きかったのだろうと感じます。
これからは適切な距離感で適切なスタンスで自分流「ヨーガの道」を楽しんでいこう、となぜなんでしょうね、今朝突然そんな想いが浮かんできてくれたのです。
数年前、「ヨガ・レッスン」に対して疑問を感じ始めていた頃、インドのマスターの本の本に「ヨーガでは真理の探究はできない」というような内容が書かれていたことをハッキリと記憶しています。その時にはピンと来なかったのですが、今はなんとなくわかるんです。
ヨーガを通しての真理の探究は人を選ぶ、ということに。
ヨーガのメンタリティーがしっくりくる場合には、ヨーガは素晴らしいツール、手法なのだと思います。
がどこかに引っ掛かりを感じる人の場合は、さらに異なる何かが待っているのかもしれません。
すべてが本物ですから、どんなスタンス、主義であっても「同等」「等価」です。
そんな中で私は阿部佐智子流をクリエイトしていく道を選択することにしました。
私の本質は「創造性」だと思うから。
ここにたどり着けたことこそ、私が「ヨーガ」「ヨガ」から学んだ大切な「果実」なのだと今、はっきりとそう感じました。
ヨガのポーズはある程度は身についています。最近はYouTubeで素晴らしいレッスンに触れることもできますから、「おウチヨガ」に転向するのもいいかな、と「縛り」が解け、「解放」モードがまた一つ増えました。
ヨーガに限らず、真理を探究する道、方法はたくさんあります。ことさら「真理の探究」などという言葉を使わなくても私たちは生きているだけで自然に真理の探究を進めているのではないでしょうか。
そのプロセスに「縛り」が必要な人もいればそうでない人もいる。
私は14年間「縛り」を体験して、やっと「自由」の喜びを味わう楽しみにたどり着けたタイプなのでしょう。「縛り」も「自由」も同等です、優劣はありません。それに「縛り」と「自由」は表裏一体。どちらもがあっての「縛り」であり「自由」です。
どう感じるかは人それぞれ。唯一無二ですものね、私たちの命は。
すべてが本物。すべてが素晴らしい。すべてが宝物なのです、そう感じることができない場合も含めてすべてが。
それにしてもヨーガ、ヨガへの執着だったのか。すごいストイックな修行僧が私の真ん中を陣取っていたんだな、と感じちゃいました。
ごめんね、今まで気づいてあげられなくて。同時に「今まで見守ってくれていて本当にありがとう」。