私はスピリチュアル・エゴが強い。
そう感じたのは半年くらい前のことです。
スピリチュアル・エゴというのは、例えば「私はあの人より真理を理解している」とか、「あの人のああいう考え方は遅れている」とか、無意識のうちに人と自分を比べて自分を優位へともっていこうとする心の癖のようなもの。宗教家、あるいはスピリチュアル・リーダー、また霊的探究を進めている人には必ずある「気質」のようなものです。
私の場合、なぜそういう気質が自分は強いと感じたのか、というと、スピ系サイトなどにお邪魔した時に、そのサイトにあふれている「スピリチュアル・エゴ」にものすごく反応しやすく、心がザワザワする、という現象に何回も遭遇したためです。
逆説的な感じ方ですが、これは心理学の伝統による感じ方です。イライラする、何か気に障る、という感じがわいてきた時は、自分の中にそれと同じ意識があって、その自分の意識に反応してイライラしたり、気に障ったりする、というとらえ方です。
心理学用語で言うと「投影」による現象。
なぜ、こんなにも他の人の「スピ・エゴ」が気になるのか ? そっか、私自身が強いスピ・エゴをいけないものとして自分の中に抑圧しているんだ、と理解しました。
ここ数日も、あるスピ系リーダーというかマスターの方のことが気になって仕方ありませんでした。
そこでさっそく「スピリチュアル・エゴ」という意識概念にヒーリングのエネルギーを送ることにしました。
ちなみに本来、霊性の探究は「スビリチュアリティ」という言葉で表現されるもの、という感覚が私のハートにはしっくりきます。日本で使われている「スピリチュアル」はたいていの場合が「心霊主義」「神秘主義」「オカルト」のことを意味しているんだとか。ただし、一般的には「スピリチュアル」という言葉の方が浸透しているので、以下も「スピリチュアル・エゴ」という表現を使います。
ヒーリングをしてすぐに感じたのは右手の親指を鋭利な刃物で切り取られる感覚です。どんな意味があるんだろう、と調べてみたら、親指はたいてい「ご先祖」さまのことをあらわしているんだとか。刃物で切り取られる感覚 ? おそらく、身体を切り刻まれるとか、首を切られるとか、の類の拷問の記憶ではないかと感じました。
私のご先祖様はかなり強烈な宗教弾圧を受けた。そのため、宗教というものに必要以上にこだわりをもっている。多分、ものすごくストイックな宗教概念を抱いていた、あるいはまだその念をどこかに残しているのではないか、と感じたのです。
とにかく半端ではない痛みです。実際に拷問を受けた時の意識なのかもしれませんね。その意識をなぜか、私はキャッチしてしまった。
その意識がまるで私自身の意識であるかのように「スピリチュアル・エゴ」として生き続けていたのではないでしょうか。
そういえば、と考えると、私は半年くらい前に「神」に対して強い疑問、疑念のようなものを感じています。当エッセイでもお話しています。
その後、宗教もスピリチュアルも私の人生の柱ではないな、との一つの結論にたどり着いていました。もちろんそれらの良いところは部分的に私の人生の中に取り込まれているにしてもそれらに傾注することはないだろうな、との気持ちがわいてきていました。
その後、ほとんどの「スピ・サイト」への訪問を卒業しました。
ところが、なのか、だから、なのか、数日前、「決定的」と思えるような新たなスピリチュアル・リーダーの方の存在を「たまたま」知ることになりました。
そのことがトリガーになったんでしょうか。「何かが違う」という気持ちが膨らんで「スピリチュアル・エゴ」へのヒーリングを思い付いたのです。
ヒーリングを終えると一つまた別の意識が浮かんできました。
宗教的弾圧、あるいは「魔女狩り」のような思想も含めて、それらの加害者もまた敬虔な宗教家であった可能性もあるのかもしれません。
私たちはともすれば「被害者」としての過去生を感じたがります。私は自分の過去生はわかりませんが、多分こういう過去生もあったのだろうという意識の中に、宗教的弾圧、または魔女狩りに関する「加害者」としての時代もあったのではないかとふとそんなことを感じたのです。
その、「加害者」としてのつらい意識もまたこの地球上にはたくさん残っているのかもしれませんね。闇に葬られがちですが。
だとするといずれものに記憶、つまり「被害者」「加害者」両方の意識を感じて受け容れることができれば、「宗教的弾圧」「魔女狩り」に関する、いわゆる「負」の記憶が自分の中で統合されることになるのではないでしょうか。
今朝、たまぁにのぞかせてもらっていて「スピ系サイト」が消えていました。事前に「辞めるよ」宣言をされていたサイトなので、「ああ、きょうだったんだ」と感じたと同時に、私の中の「スピリチュアル・エゴ」のエネルギーが大きく変わったんだろうな、とのことを感じました。
私たちは無宗教であってもスピリチュアルに興味がなくても、意識のどこかで「スピリチュアル・エゴ」の部分を抱いて生きている生き物です。またこの地球上の大きな集合意識として「スピリチュアル・エゴ」の存在は小さくはないはずです。
まずこの事実を受け容れることで、私たちの意識は「真ん中」に近づく一歩が踏み出せるのかもしれません。
個人的にスピ・エゴが私にもたらしてくれたもの。「スピ・エゴを膨らませたくない」という想いから、
〇 霊性の探究だけでなく心理学への道へと導かれていた、しらないうちに
〇 結果、霊性探究と心理学との融合が進んだ
〇 それによってホリスティック・ケアと心理学の融合も進んだ
私の人生における大きなテーマの中で「スピリチュアル・エゴ」が大活躍してくれていたようなのです。
ということは、ご先祖さまが昇華・統合しきれなかった「スピリチュアル・エゴ」が私に継承されて、それが私自身を苦しめたこともあったけれど、結果として、自分の人生に新たな大きな柱を「創造」させてもらえた、そのための大切な道具、Giftだったんだ、とやっと気づくことができました。
ご先祖さまの念が子孫を祟る、という考え方もあるようですが、もし本当にそういうケースがあったとしても、その蔭に隠れている大きな愛に子孫が気づくことをご先祖さまは心から期待しているのではないでしょうか。そうやって見守り続けてくれているのがご先祖さま、という存在なのかもしれませんね。
私のご先祖さまもスッキリしてくれたかしら。
かなりへビーでしたね。ご先祖さま。
でも、その分、愛もおっきいんだろうな。