虚栄心が減ってしまったみたいです

虚栄心。

 

私はそこそこ虚栄心が強い方だと思います。

 

少しでも綺麗に見られたい。

少しでも素敵に見られたい。

少しでも若く見られたい。

少しでも優しい人だと見られたい。

 

などなど。細かいところをあげていったらキリがなくなるほどです。

 

この虚栄心、誰にでもあるものです。

 

時に「私はもう虚栄心は超越しました」と話している人でさえ。

 

その虚栄心が、なんだか一気に減ってしまったようなのです。

 

以前だったら「この人、虚栄心強いな」と心に何かがチクチク刺さる感じの人に対しても、「あ、この人は虚栄心が強いんだ」とは感じてもそのチクチクの部分がなくなってしまっています。

 

だからと言って私の中の虚栄心がゼロになったわけではありません。こうやって虚栄心について執筆している時点でそのエネルギーは私の虚栄心なんだろうと感じるからです。

 

この、「チクチク」のない感じ、悪くないです。

 

この人はこういう人、とジャッジせずにその人のありのままを受け容れているという証拠ですから。

 

そもそも虚栄心って何からきているんだろう、と思ったら「無価値感」からきているんだなという感覚が出てきました。

 

ではその「無価値感」はどこからきているの ? と思ったら、分離意識による淋しさからきているんだ、と気づきました。

 

私たちはそもそも分離の意識の中で生きています。

 

大いなる源との分離、そしてお母さんとの分離。お母さんとつながっていたへその緒、誰でも一旦切られていますよね。

 

ということは大昔、ビッグバンの時でしょうか、大いなる源から切り離された時にものすごい分離意識を感じていて、また個としてこの地球にやってきた時にも分離意識を味わい、さらに誕生の瞬間にまたまた強い分離意識を味わっているということになります。

 

その時に100%「淋しいよ」と感じきった魂はひとつもなくて、みんな「淋しいよ、淋しいよ」という意識の中で生と死を繰り返しているのかもしれません。死んであの世に行くとその感覚は薄れるのでしょうけど、この地球にやってくるとまたまた「淋しいよ」の傷がうずいてしまう。

 

なぜならこの地球にはたくさんの「淋しいよ」エネルギーがあふれているから。

 

その「淋しいよ」が、「自分は無価値だ」「自分なんて」という想いを膨らませ、「じゃ、価値があるように大きく見せなきゃね、自分のこと」、となってそれこそが虚栄心の大元なのかもしれないと感じました。

 

ということは、虚栄心のない人なんていないし、自分にも虚栄心があることは当たり前だし。だったらその虚栄心も、そもそもの大元だろう「淋しいよ」の意識もみんなみんな受け容れてしまえば、必要以上に虚栄心が暴走する必要はなくなるのではないでしょうか。

 

この流れがさぁっと浮かんできました。

 

虚栄心はいけないものという思い込み。虚栄心があることに対する恥の意識。それらがますます私たちの虚栄心に栄養を与えてしまっているのかもしれません。

 

虚栄心という概念、大切に味わいましょう。

 

あまりにも暴走しているようなら、虚栄心に真正面から向き合って。

 

ほどほどのあばれ具合だったら目くじらを立てないで。

 

私たちの中から一見「ネガティブ」な意識が100%なくなることはありません。それらの意識にもきちんと「存在意義」があるのです。

 

排除、攻撃、対立より手に手を取り合って仲良くしてしまった方がうまくいくこと、たくさんあるのではないでしょうか。

 

その、排除、攻撃、対立にだって価値があるのです。

 

すべてのものが「等価」「フラット」。

 

またまたストンと腑に落ちてくれました。

 

分離による無価値感、分離による欠乏感、分離による焦燥感。

 

と考えていくと、ほとんどの一見「負」の意識は「分離」意識に由来していることがわかります。

 

ということは、私たちは統合の喜びを与えられている生きものだということ。その統合の喜びを味わうためには分離意識をしっかりとかみしめなければならないということになりますね。

 

分離意識に直結した感情が「淋しいよ」なのだとしたら。

 

私たちが何を感じたらいいか、答えは簡単。

 

一見「負」の感情こそ自分の中に居場所を創ってあげませんか。

 

逃げ回るから追いかけてくるんです、鬼ごっこ、イタチごっこ。

 

こういう一連の波、私の場合は「今」うまい塩梅に乗っかっているみたいです。

 

けれどこういう波だってみんなその人にとってのベストで訪れてくれるもののはず。

 

「今のこの波、逃すと後はありませんよ」と話すその意識も虚栄心です、「淋しいよ」が発した言葉。

 

もちろん同じ波は二度とこないかもしれません。

 

でも、「波」そのものはずぅっと続けてやってきてくれるものではないでしょうか。

 

自分の中の「淋しいよ」ちゃん、「安心してそこにいて平気だよ」って抱きしめてあげたいな、今まで邪険にして来た分、より愛おしみながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

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