淋しいと人は知識に頼ろうとする。
たった今浮かんできたばかりの内容です。
人は淋しいと感じると、その淋しさから逃れようとして、必要以上に「知識」に走ろうとする傾向があらわれます。
「淋しい」、その一言が言えないあまりに。
もちろん知識そのものは悪いものではなく、知識によってさまざまな拡がりを体感できる素晴らしいGiftです。
ここでのポイントは「必要以上に」という点です。
もしもあなたが知識を身につけなければいけないと必死にもがいているようなら、その真ん中には「淋しいよ~」と肩をふるわせて泣いているもう一人の自分が存在しているのかもしれないということに目を向けてみてはいかがでしょう。
淋しい。それは自分の真ん中につながることができなくて、自分で自分を感じられないから淋しいのではないでしょうか。自分で自分を感じられないから外にある確かな「知識」を得て、自分自身を感じたような感覚になろうとしているのではないでしょうか。
もちろんそれがいけないのではなく、自分自身の心のバランスのバロメーターとして「知識欲」を活用することができるかもしれませんね、というお話です。
そういえばここ数日、私はある書籍が読みたくて仕方なかったのですが、どうもその書籍は本当に今の私に必要なものではないらしいという感覚が何回も浮かびあがっていました。
その気持ちがきょうはまるで感じられない。そう、あの書籍に書かれた内容は今の私には必要のないものだったんだ、という確信が得られたのです。
ということはここ数日、私は自分自身を感じられなくて心がフラフラしていた、ということなのかもしれません。「淋しいよ、淋しいよ」ともう一人の私が泣いていたのかもしれませんね。
淋しがりやの自分に気づいてあげたら、しっかりとその気持ちを感じさせてあげるのが一番。おいしいものを食べたり、本を読んだり。時にはそれも楽しいけれど、自分の真ん中はもしかしたらそれは望んでいないのかもしれません。
どちらが「良い」とか「正解」という意味ではなく、自分の「淋しい」という気持ちは自分でしか感じられないということをお伝えしたいと思いました。
私たちはみんな自分の心の奥底に「淋しいよ~」という想いをたくさん隠し持っています。
淋しい自分、淋しがりやの自分をもっともっと愛おしんであげれば、自然に自分軸が太くなります。自己肯定が進みます。すると必要以上に外からの「何か」を求めることはなくなります。
外からの「何か」に頼りたい時には、そういう自分も受け容れてあげて、決して無理強いをしないようにすると、自分との距離感も上手につかめるようになるはずです。
「そっか、あの人は淋しかったんだ」
私の場合、どうやら私にネガティブ・ストーカー的エネルギーを送っていたらしい人に対して「もう大丈夫だよ」との受容の気持ちがたった「今」浮かんできました。なぜなら、その人はいつも「知識優位」の人だったから。その人は淋しくて淋しくて仕方なくて、でもそんな自分を受け容れられないから、私に攻撃的なエネルギーを送ることでその淋しさをごまかしていたんですね。
淋しい自分、淋しい想い。私たちの大切な一部です。
淋しさを感じることは恥ずかしいことでもいけないことでもないからしっかり向き合って。
内なる自分へのエールの意味も込めて。
ちなみにこの流れは、その、ストーカー的エネルギーを送っていた人の「解放」につながります。私にはもうその人からネガティブな意識を送られることはなくなります。
お相手を攻撃したのではなく、受け容れたのです。「良い」でも「悪い」でもなくその人のあるがままを。