前エッセイで、私の身体がかたかったお蔭で私の中に「ヨガとピラティス」の融合が生まれた、「東西」の融合がなされた、とお話しました。
今ふと浮かんできたのはどんなにかたいモノでも「融け合う」し「解け合う」し「溶け合う」んだという事実です。
身体がかたい。
心がかたい。
頑固に凝り固まった意識。
でもかたいという結晶のまま、ずっと凝り固まっている、ということはないのかもしれませんね。
どんなにかたくても、何かと混じり合うことができる。
どんなにかたくても、未来永劫、一人、ひとつで「分離」し続けていることなんてできないんだ、きっと私たちの命は。
私は「身体がかたい」ということがずっとコンプレックスでした。
違いました、「身体のかたさ」も私のリソースでした。
「身体がかたい」からこそ味わえる体験をするための大切なアイテムでした。
たとえ頑固で頑固でどうしようもなく頑固な性格だったとしても、絶対に「とけあう」ことはできるんです。
身体がかたいことをNGとしている情報は少なくありません。気功とかヨガとか。身体がかたい人は心もかたいんだよ。早くやわらかくしないと後で大変な目に合うよ、って。
全然そんなことなかったのに。なぜならすべてベストのタイミングで起きるべくして起きるようになっているものなんだから。
専門家と呼ばれる人の「かたい」思い込み、社会通念という「かたい」鎖、全部全部自分の力で何とかできるものばかりです。
制限を外すためのサポートならいくらでも受けるけど、制限を強めるサポートはもういらない。
惑わされていた自分の弱さから「卒業」します。もちろん惑わしていたのは自分自身。
確かに私の心はかたかったのかもしれない。身体同様。
でも「ほどけたよ、とけあったよ。とけあうことができたよ」。
自分自身を苦しめている「しばり」、絶対外せますね、自分の力で。