卒業シリーズ第二弾です。
第一弾は「健康オタク」。そして第二弾は「修行モード」。
私は自分の過去生はわからないのですが、ここ数年特に私の真ん中に「修行、苦行」の大きな柱があることに気づいていました。
宗教的な集合意識の影響でしょうか。それともご先祖様の中に誰か修行僧がいたのでしょうか。
いずれにしても根深い。解放しても解放してもまだまだ出続けてくるエネルギーの一つです。
例えば私の意識の中には「楽して真理は得られない」という強い刷り込みがあります。
自己犠牲の概念はだいぶ少なくなっているものの、それでもまだ「人が先」という意識も根付いています。
さらに、「清貧」意識。これは何回も何回の統合を重ねてきましたが100%統合できたようすはありません。
私が自己統合の必要性に気づいたのは今から4年前のこと。最初の頃はまだまだ感覚が未熟でしたが、2年前、やっと「自己統合とは徹底的に自分の闇に向き合うことだ」と気づきました。
以来、内観、内省というものをずっと繰り返してきました。
そのお蔭で、かなり自己統合が進んできたことを感じることができるようになりました。
ただし、私の自己統合、自己受容にはかなりの時間がかかります。
一つの「負」のエネルギーが浮かびあがってくると、場合によっては一時間以上そのエネルギーを感じなくてはならないことも。
これが一生続くのかと思うと、正直「面倒くさいな」と感じることもあったりします。
その一方で自己統合が進むと自己実現が進む、という心理学の理論を体感することも多くなり、それはそれで嬉しい想いにもつながっています。
そしてきのうのこと、ふとした拍子で「簡単に自己統合する方法」という情報にたどり着きました。実際に試してみると、確かに楽ちん。私が今までトライしてきた方法より断然「簡単」です。何パターンかの方法を実践してみましたが、私の内外のエネルギーが大きく動くことを実感することができました。
もしかして、これって私自身のモードが「重厚」から「ライト」に変わったのではないかと感じました。
罪悪感がないのです、「簡単」「楽ちん」自己統合スタイルに対して。念のため、「重厚」「ライト」共に等価です。どちらが「良くて」どちらが「悪い」はありません。
だとすると自分が心地よいスタイルを選べば良い。
今までは「重厚」でじっくりと根本に向き合うスタイルがシックリきていました。これこそ「修行」「苦行」モードのあらわれではないでしょうか。
それが「ライト」で簡単に、というスタイルへと移行した。
ということは ?
知らないうちに「修行」「苦行」モードを卒業してしまったようなのです。
精神世界的捉え方をするのなら、私のガイドさんが変わったみたいです。今までは確かに複数の、宗教家、それに準じる方たちの強い意識を感じていました。そういう方の姿が視える、という意味ではありません。その方に象徴される特徴的な意識を感じていたという意味です、すべて私の意識の中での感覚です。
その方たちとの距離感が変わったのか、あるいは新たな意識のあらわれなのか、そのどちらかなのかもしれません。
現実的な視方をするのなら、私のエネルギーが無意識のうちに変わってしまった、ということのようです。
自己統合は私の今の感覚では一生続きます。解放した、昇華した、統合できた、と感じた意識でもまだまだ繰り返し私の中からあらわれてくることでしょう。
一生続くのなら、できるだけ「簡単」「シンプル」な方がいい、私の場合は。
私はそもそもが面倒くさがりやなのです、私の顕在意識。ところが私の潜在意識は超が付くほど「面倒くさい」方法を選択していました。
ケースバイケースかもしれませんが、しばらく「簡単」モードの統合方法を試していこうと感じています。
もしそれがそれなりの効果を感じさせてくれると確信が持てたら、カウンセリング・セッションでそのスタイルをご案内することができるようになるはずです。
新たな扉が開いた。
きのう、そう感じたのはこのことだったのかもしれません。
今までお世話になった「修行」「苦行」モードはおそらく、ですが地球全体の集合意識だと思います。とても私の個人意識だけとは思えません。とにかく根深い。この二つに対しては「敬意」を表して今までの「重厚」スタイルでヒーリングのエネルギーを送ろうと考えています。
たとえ時間がかかったとしても。
それくらいお世話になった大切な地球の一部であり、私の一部ですから。
ちなみに前エッセイで「私の健康オタクモード、卒業」のお話をしました。その内容には4月に亡くなった超健康オタクの友人のサポートが入っているようだと。
そしておそらくこの「修行モード卒業」の内容にも彼女のサポートが入っているのだろうと感じています。
なぜなら、彼女は究極の「苦行」「修行」スタイルで生きていた人だから。
「もう手放して平気だよ。身軽になって平気だよ」
そんな彼女の声が聴こえているような気がするのです。
気がするだけ、ですけど 笑。
亡くなった存在というのは、そこで「はい、おしまい」の関係の場合もあれば、自分の根幹にかかわるところでずっとサポトーし続けてくれる場合もあるのかもしれません。
ご縁というのは深いものなのですね、私たちが思うよりずっと。