いよいよ、ご先祖さまからの愛をいただいてしまいました。
私は先祖供養とか先祖崇拝とか、実はハートが響かないタイプ。
もちろん先祖なくして自分の今があるなどとは感じていませんでしたが、ことさら「ご先祖さまに手を合わせないと」という意識はわいてこない方です。
きのうの真夜中、突然両手の親指が刃物で切り落とされる感覚を味わいました。
痛い、痛い。かなりリアルな感覚です。
そのまま眠り込んでしまい、朝一番で調べてみたら、なんと親指からのメッセージはご先祖さまに関するものだと。さらに親指の関節に「眼」のような形が視える場合、それは「仏眼」と呼ばれるもので、ご先祖さまからの手厚いサポートを受けている証拠なんだとか。たいていの場合、直感が鋭くなる、というメリットがあらわれるそうです。
私の場合、両方の手の親指に「仏眼」があるため、そっか、私の直感はご先祖さまのサポートによるものなんだと、そんなことにはじめて気づきました。
そういえば、と思いを巡らすと私はお墓参りにも行っていないし、お盆なども何もしていません。ご先祖さまにお礼くらいはお伝えしなきゃ、とご先祖さまに向けて「愛のエネルギーボール」というヒーリング・エネルギーを贈りました。
「今までたくさんのサポートをしてくださっていたのに気づかなくてすみませんでした」
「私をずっと護ってくださってありがとうございました」
「もし、ご先祖さまと分離したネガティブなエネルギーが私に残っているのならそれを統合させてもらいます」
この三点を意識しながら。
すると、両腕にものすごいエネルギーが流れ、次に指にもものすごいしびれを感じ、さらに手のヒラがビンビンにしびれ始めました。
親指に関しては、「自己の解放」というメッセージがあるそうです。また手のヒラに関しては「ハンドチャクラ」というものの活性化が起きた時の現象のようです。
私は、おそらくなんですが、過去生、あるいはご先祖さまのいずれかが何かを人々に伝えるお役目に携わっていて、どうやら両手の指を取り落とされるというような凄惨なリンチ的処刑を受けたのではないかと感じました。その時の意識を統合し、さらにハンドチャクラに関しては、ヒーリングの名手 ? だった過去のエネルギーとの統合を感じました。
また腕の付け根がジンジンにしびれ、これはハートチャクラとハンドチャクラのつながりが強くなったことのサインではないかと。ハートチャクラとハンドチャクラのつながりが強くなると、よりヒーリング能力が強くなるらしいのです。
私は元々ヒーリング能力が開花しやすいタイプだったようですが、今まではハンドヒーリングではなく、意識だけでのヒーリングを行っていました。これにさらにハンドヒーリングパワーが加わってしまったようなのです。
さらにハンドチャクラの活性化は、握りしめていた恐れの解放の意味もあるらしく、私はヒーリング能力に対して強い恐れを抱いていて、その過去生かご先祖さまのカルマを握りしめていたまま、ヒーラーとしての活動をしていたため、どこか気分的にスッキリしないものがあったのでしょう。
その「恐れ」を受け容れ統合したことで、「もう恐れは要らないからね」とご先祖さまグループが強烈なエネルギーを贈ってくれたようなのです。
つまり、ご先祖さまに「感謝」の気持ちでヒーリングのエネルギーを贈ったら、その何倍もの「お返し」が瞬時にきてしまった様子。
両腕のしびれ、ハンドチャクラの活性化は「豊かさ」の受け取りと手放し、つまり「豊かさの循環」の意味もあるんだとか。
このことが一瞬にして私の身に起きたご先祖さまによる「ヒーリング」です。
私は、個人的にご先祖さまは子孫を祟ったりはしないと思っています。ただ、ご自身が生きていた時に分離させてしまったエネルギーを子孫が「カルマ」として受け継ぐことはあるのかもしれません。
私は力を持つとさまざまな勢力から攻撃を受ける、という意識を強く感じ続けていたのですが、多分これは私のご先祖さまの未統合の意識だったのではないでしょうか。
ヒーリングも何もしていないのにある日突然できるようになってしまったので、絶対何者かが関与しているとは感じていました。
まさか、それがご先祖さまグループだったとはビックリです。
このお話を私の個人的妄想だと感じる方はそれはそれでヨシ。
一方、何となくそうなのかもね、と共感してくださる方は何かの機会にご先祖さまにありがとうの気持ちを伝えてみるのも良いかもしれませんね。
ちなみに私はご先祖さまに手を合わせてもいませんし、わが家にはお仏壇もありません。おそらくこれからもお墓参りには行かないと思います。
私たちが意識的に呼ばなくても私たちをずっと見守り続けてくれている。それがご先祖さまの姿なのかもしれません。
今まで本当に、その存在にさえ、意識を向けることはほとんどありませんでした。
でも怒っているようすなどみじんも感じられません。
これが「無条件の愛」なのでしょうか。
私たちは孤独感を感じることはあっても、本当に孤独になっていることはないのかもしれませんね。
私たちの命はどんな形であれ、脈々と受け継がれていく中の「一部」なのだと、その一部は大いなる一つを形成するために必要なものなのだと、あらためて自分の命の尊厳とそれに対する敬意を感じることができました。
どんなに淋しさを感じることがあっても一人ぼっちではなかったのです、あなたも、私も。
※ 追記
私は自分の過去生はわかりません。ただ、宗教的な団体に加わっていたことはあるのだろうと推察していました。きょう、主人とお買い物に行ったとき、なぜか「アロマ・エッセンス」に呼ばれ、そういえばここのところ「アロマ」や植物の精霊とのご縁が深くなっていることを認識しました。
家に戻って、購入したアロマ・エッセンスのパッケージを読んでビックリ。
大昔のスイスの修道院のレシピを継承して、それをアレンジした内容のエッセンスだそうです。
もしかしたら、ですけど、多分そうなのでしょうね。
キリスト教の禁欲の教えが私の古くからの記憶として残っていたのでしょう。
やっと「解放」の時が来ました。
この「解放」にも複数のご先祖さまが力をかしてくれたのかもしれません。
そして、亡き両親と兄も。
はじめから私たちは守られていました。