「天国はどこにあるんだろう」
そんなことをふと感じました。
天の国だから私たちの上の方 ? つまり空の向こう ? 宇宙 ?
天国への階段をのぼる、という表現があります。
そこからイメージできるものはやはり私たちの上 ?
地上に天国をもたらす、という表現もあります。
これは上の世界から降りてくるものなのでしょうか。
そこでふと個人的に感じたのは、そもそも「天国」という概念は「地獄」と対応してのものであって、だとすると二極の概念の象徴なのではないかということです。
もしも「天国意識」というものがあるとすればそれは私たちの内にあるものではないでしょうか。
同時に「地獄意識」も存在する。
意識の中のある部分に対する名称なのだとしたら、地獄もあり、天国もあり、ということで統合が可能です。
もしも外に「天国」というゾーンがあるのだとしたら、それは自分自身のこととして統合できません。つまり「分離」の世界になります。
というようなことを考えていたら、私的にはスッキリしてしまいました。
私は「天国」は自分の中に統合できるもの、ととらえました。当然「地獄」も受け容れる。
私たちが亡くなった後に行く世界が「天国」なのか「地獄」なのか、行ってみなければわかりません。
本当にそういうところがあるのだとして。
行ってみなければわからないことのことを思い煩っても仕方ない。
というのが今の私の一つの結論です。
それよりももし自分の内に「天国意識」と「地獄意識」があるのなら、そのバランスがうまい塩梅に整うくらいの気持ちのもちようを自分なりに探ることの方が現実的なような気がします。
できることをする、できる範囲で。できるベストを探る。
私にとって外の世界の真理を探ることはとても難しい。
それなら内なる真理を探っていこう。それなら今の私にもできる。
自分の内に目を向ければいいことだから。
地上に天国をもたらすとは、上の世界の光を地上に降ろすというより、自分の内にある「天国意識」をできるだけクリアにして、結果その光が自分の肉体から放射されていくことを具現化するということなのかもしれません。
他の方がどう感じるかは別にして、あくまで私にはそう思えるけれど、というお話です。
人の人生の課題はそれぞれです。
私の人生においては、「今」、そういう課題のとらえ方をするのがベストなのではないかとそう感じました。
内なる「天国」であればパスポートをどこかから発行してもらう必要はなくなりますね。
ベクトルを外に向けるのか内に向けるのか、で生き方そのものが大きく変わる、ということの体験を今生の私は選択しているようです。