手首にぐるんぐるんと巻き付けられていたエネルギーの鎖が外れた様子です。
私たちはおそらく、エネルギーの鎖で全身、がんじがらめに縛られています。見えないのでわからない、気づかない。けれど外れていくその感覚を味わった時、はじめて「そうだったんだ」と気づくことができるものなのでしょう。
数日前、私は手首や全身からエネルギーがベリベリと剥がされていく感覚を味わい、それは多分「自己犠牲」という名の鎧だったと当エッセイでお話しました。
きょう、お買い物へと出かけていく途中、自転車のハンドルを握る手に大きなしびれが。「きた ! 」とその感覚を楽しんでいると、手首にまかれていたエネルギーの鎖がどんどん解かれていく様子が浮かんできました。
特に右手が半端ない解放感。
なぜなんだろう、と様子を探るとこんな答えが返ってきました。
私は自分の右手を特別視していたのです。私の取り得といえば文章を書くこと。おそらくこの力は長所と言ってもいいもののはず。けれど長所があれば短所もある。右手を特別視する一方で、例えばダンスが苦手とか身体がかたいとか、自分で「短所」と決めこんできた「コ」たちを恥ずかしいと感じていたのではないかと。
つまり、自分の身体なのに「手」だけえこひいきをしていたのです。えこひいきをした分、もしかしたら外からの何モノかの攻撃も受けやすくなってしまっていたかもしれません。
「えこひいき」の反面「ブロック」も大きくなってしまったんだ。もちろん自分自身の選択の結果。
そうか、そういうことでした。
私の一見長所も短所も、私自身がそう勝手に決めているだけで、創造主からすれば「優劣」なんかなくて、みんな必要なものなんだよ、って私に授けてくれたもの。それを勝手に「優劣」をつけて時に優越感に浸ったり、時に劣等感に浸ったりしていたのは、すべて「私」。
私は右手をえこひいきしたぱっかりに、全身のエネルギー・バランスを崩していた、という事実に気づきました。
右手も左手もまちがいなく同等。右手も頭も同等。右手も心臓も同等。
すべて等価でした、すべてフラット。すべて必要だから私に備わっているコたちでした。
全身のバランスが良い塩梅に落ち着いた時こそ、私の右手の本当の力が活かせるのでしょう。
それに私はたまたま「書く」というお役目をいただいているけれど、実は誰だって「書く」「描く」ことはできるんですよね。それをどのように地球に反映するかの違いはあっても。
そしてその違いに「善悪」も「優劣」もない。
自分の身体のパーツにさえ、「優劣」をつけていたんです、私は。それが外の世界に反映されれば、私の世界観はどうしたって「優劣」の視点になって当たり前。
私たちには本質的に「優劣」の視点が備わっています。二極の世界観。
けれどあえて自分の身体に「優劣」の順位付けは必要なかった。
そのことに気づかせるための、きょうの縛りからの解放、という体験があったようです。
すごいぞ、こんなことに気づかなかった自分も。そして今、気づけた自分も。
誰かと比べての「すごいぞ」ではなくね「やったね」という意味の「すごいぞ」です。
今朝、起きて鏡を見たら、鼻が高いんです、いつもより。もちろん実際には変わっていないんですけど、鼻がいつもより少しだけ誇らしげに目に映ったんです。
鼻高々、ってあたりいい意味ではないかもしれないけれど、自信の備わったさまを形容していますよね。さらに鼻にはセクシュアリティーの課題が反映されているとも言われています。つまり、私たちの生命力そのものの課題。また嗅覚は「鼻が利く」という意味で深い洞察力などにも関係しているそうです。
なぜか、きょうは鼻が高く見えた。
多分、「自信回復」のプロセスが私の中で進行してくれたから。
そのお蔭もあって、手にまきついていたエネルギーの鎖が解けた。自由がまた一つ増えた、ということなのでしょうか。
私は元々かなり自由な性格だと捉えていたのですが、違いました。ものすごい縛りや抑圧を抱えている、潜在意識の中に。
ということは。
私は「解放」の喜び、それによって得られる「自由」の喜びを味わうために「縛り」や「抑圧」を多分人より強く設定してきたんだろうと、自分の性格の癖を再認識しました。
そう、私は高いハードルを設定して、それをクリアするプロセスを楽しむという、自虐的な魂の持ち主だったのです。
もしかしたら、「自虐」のモードが緩和されたのたかもしれません。
だとすると、手首に巻き付いていた何モノかの課題は、二つとも「自己犠牲の解放」ということになりますね。
自己犠牲。女性には特に多い、心の傾向です。
私は自己犠牲は減らしたかったので、それなりに格闘してきました、自分自身との闘い。
時間はかかったけれど、やっと成果があらわれはじめてくれたみたい。
手放したい方、きっとその時は来ますね。ベストのタイミングで。