あなたは依存症ですか。
私は依存症です。私の認識でいうと依存症気質の傾向に傾きやすい性格です。
実は誰にでも「依存症」の資質、気質は備わっています。
その認識がない方にも。
ですから「依存症」そのものは問題視する性質のものではありません。
ただ、「依存症をいけないもの」と抑圧しすぎることによって日常生活に支障を及ぼすほどの「依存症」になってしまうというのが、その大きな特徴です。
私は元々「愛着障害」という心の特質を兼ね備えているため、依存度はかなり高い方です。
人への依存、モノへの依存、つまりは愛への依存。
「愛着障害」もまた誰にでもその資質、気質は備わっているもの。
その程度の強弱がその人の性格に大きくかかわってきます。
私は日常生活には支障のない範囲。気づかなければ一生なんとか苦しまないでいられる程度のものだったのかもしれません。
二年前にふとしたことから、どうやら私は愛着障害らしいと気づいてしまったため、その改善をこころみてきました。
ただし、「愛着障害」はいけないものだから完治させようという想いではありません。
「愛着障害」は万人に共通する課題のはず。それなら私が何かを体験すれば、その体験がどなたかのお役に立てるかもしれない。何よりそのプロセスを思い切り楽しんでみようと想ったためです。
とは言っても実際には楽しいことばかりではなくて、どん底な想いも味わうことにはなりましたが。
さて、私は自分の依存症気質を自分自身との対話に活用することにしました。
つまり、今までは外側の人だったり、モノだったりに依存する傾向が強かったのですが、すべてそのエネルギーを自分の真ん中に向ける。
常に自分との対話をし続ける。
これは時に気持ち悪くなることもあるくらい、なんとも奇妙なものです。
ところがそんなことを二年続けてきたら、なんだか自分自身が視えてきて、わかってきて、今まで認識していた自分とはまったく異なる「自分像」「自己像」が私の中に育ってくれました。
それは驚くほどの収穫。
「私は今まで私のことを××だと信じ切っていたけれど、全然違った。もっとデリケートだし、もっとナーバスだし、もっといやなところもたくさんあるし。でもそれが本当の私だったんだ。自分の綺麗なところ、一見良いと思えるところだけ見ていたんだ。そんなのかわいそうすぎる。失礼すぎる。自分自身に対して。自分のすべてをみてあげないで、都合の良いところだけ自分に寄り添って。
もしも私自身が私の子供だとしたら、子供の私はそんな親に対してどんな風に感じただろう。
良い子にしている私だけしか見てくれないのね。私のすべてを受け容れてくれないのね。
すごく哀しい気持ちになったかもしれない。すごく淋しい気持ちになったかもしれない。ずっと自分自身に対して、そんな接し方をしてきたのが二年前までの私。
でも依存の対象を自分自身に向けたお蔭でやっと自分の全体像が視えてきた。全体像が視えれば、どうやって生きていけばいいのか、何をしていけばいいのかもよりわかってくる。
依存症が私の味方になってくれたんだわ」
かなり長いコメントですが、そんな気持ちです。
依存症気質を恥ずかしいものと思わなくても平気です。
依存症を克服できないのは自分の意志の弱さのあらわれだ、と自分を責めなくて大丈夫です。
誰にでもある、資質、気質。
だから自分流に、自分風にアレンジしながら、自分の糧にしてしまえばいいのです。
自分の資産なんです、依存症気質も。
依存症気質が強いほど、自分自身に向き合うパワーも大きくなります。ノビシロが大きいという証拠です。自分自身に大きな変容をもたらすことができるという、大きなチャンスを抱えての人生だということです。
私たちの中には私たちに必要なものすべてが備わっています。
ムダなものなど何一つありません。
すべて必要なものばかり。
私たちの命もまた、今の宇宙に必要だから、地球に必要だから、ここにこうして存在している、ということなのでしょうね。
私自身の体験なだけですが、自分の真ん中に近づくことほどエキサイティングなことはありません。
もちろん外に刺激を求めてはいけない、という意味ではなく、内、外、どちらにも素晴らしい刺激は備わっていますよ、という意味です。
私の場合は、今は外より内の刺激の方が断然魅力的だった、私には必要だった、ということなのだと感じています。
それでもまだ右往左往するんです、私の毎日は。
それが自然。そうなるのが私たち人間のさだめなのかもしれませんね。
悩みのない人生なんてありえない。どんなに悟った、と言われる人でも生きているからには悩みはつきもの。悩みの中に自分を探るヒントが隠されているはず。自分探しは一生続くもの。天国に還る、その瞬間まで。
それが生きる、ということなのではないかと、今の私の想いはそんなところです。