「自己犠牲」
ずっと私の課題でした。
ここ半年くらい、なぜこんなに「自己犠牲」という概念がしみ込んでいるのか、なぜそれを手放そうとしないのか、さまざまな想いを巡らしていました。
私の個人的解釈によると。
私は自己犠牲と救済を天秤にかける、という刷り込みがなされているのだろうと。自分を犠牲にして「いけにえ」として差し出すことで、「たすけてくださいますよね」と見返りを求めているのではないかと。本来、すでに私たちは「みんな救われているはずではないのか」と。
それでもこの心身魂にしみ込んだこの感覚はどうして離れていってくれないのだろうと。
今朝、目がさめてみると両腕がしびれています。同時に足首も。
手錠と、足をしばりつけていた鎖が外れた感覚です。解放の喜びがわいてきました。
さらに身体を起こして瞑想をすると、両肩から腰のあたりまで何かがベリベリとはがれていく感覚。下半身も裏側から何かがはがれます。
そして、これはあまり起こらないことなのですが、笑っているんです、ひとりでに。瞑想中に。
外からみたら完全におかしい人でしょう。
う~ん、この解放感。
「脱皮」
直感的にそう感じました。
朝、一番で手足を縛られていた鎖が外された感覚。
その後、二人ばおりのように、背中に誰かがびっしりとしがみついていた、その誰か、何かがすうっと離れていく感覚。
そして下半身もベタッと何かが張り付いていたのでしょうか。全面に。それがベリベリっと剥がれていく感覚。
この感覚を表現するのにふさわしい言葉が見つかりません。けれど多分「脱皮」なのです。
何年も、もしかしたら過去生においてもそうだったかもしれない、私の一部が大きく剥がされていきました。
その後「笑み」を浮かべていることから、もしかしたら私は顔にも「鉄仮面」のようなものをつけていたのかもしれません。
いつも「ニコニコ」している、微笑み鉄仮面。
その鉄仮面が外れて、本来の私の笑顔があらわれてくれたのかもしれません。
なぜその感覚と自己犠牲がつながるのか。
なんなとなく、です。
私の場合「なんとなく」は結構あたっていることの方が多く、私は自分の直感だったり、直観だったりをどこか信じていないところがあるようなのですが、昨日あることがキッカケで、私は自分の「感、勘、観」は「絶対」に信じるべきだとの強い想いがわいてきていたのです。
もちろんこの「絶対」は自分自身において、だけのこと。他の人に対して、「私の言うことは絶対正しいのよ」とおしつけるものではありません。
ここ半年くらい、悩み続けてきた、と言ってもずっと考えていたわけではなく、ただ私の課題なんだろうと感じていた「自己犠牲」はどうやら、私の全身から離れていってくれたようです。
私は「自分」と「救済」を取引したりはしない。
なぜなら、それは「分離」による考え方だと思うから。
私たちは自分の煩悩もエゴも欲も、う~ん、この辺線引きあいまいですね。ま、いっかな、それらすべてをひっくるめて「自分」と受け容れ、あるがままの私を受け容れることによって自然に「救済」という境遇がもたらされる。
「救済」とは誰かにもたらしてもらうものではなく、自分の心の中に住んでいる、その感覚を自分自身の力で呼び覚ますものなのかもしれないから。
というのが「今」の私個人の想いです。
今後、この考え方が変わることがあるかもしれない。
ただ、「今」の私はそう感じています。
「自己犠牲」ってある意味「コンプレックス」が起点なのではないかと、ふと感じました。
自分は誰かに劣っている。何かと比べて劣っている。
必要以上に、「劣等感」を自分の中で膨らませて、その「劣っている自分」では救ってもらえないから、救ってもらうためには何でもします、という感情。
私自身はそうだったのかもしれません。
自己肯定できない、自己肯定していいのに、自己否定を選んでいた私自身の選択がもたらした感覚です。
自己否定はいけないことではないのです。
否定があるから肯定も視えてくるので。
けれど自己否定ばかりにフォーカスしていると、自己肯定はなかなか視えてこなくなる。
どちらも存在して、どちらも自分の中にある感情で、だからこそバランスが取れるように自分で「良い塩梅」を見つけ出す楽しみを味わえるわけですね。
劣等感もまたいけないものではないんです。
人と比べて明らかに何かが劣っている、と感じることは人間であればあたりまえのこと。
ただしそれを必要以上に膨らませて自分を卑下して、自分を小さく、弱く感じすぎると、バランスが崩れます。
自己否定や劣等感。
今一度意味を確認して吟味して、自分の中でそのポジションを明確にしてあげるのもいいかもしれませんね。
私たちは生まれた時から、何らかの思考の歪みが備わっています。どんな人にも。その思考の歪みを上手に活用して、歪みの幅を少なくしていく力が誰にでも備わっています。
私の場合、今回はそれが「自己犠牲」という意識だったようです。
「自己犠牲」の殻から脱皮したと言っても、「自己犠牲」意識がゼロになるわけではありません。
私なりの「自己犠牲」はまだ残っています。
いいんです、それで。
ただし「私なり」というところがポイント。
他者や社会が決めた「自己犠牲」のルールはこれからの私には必要なくなりました。
今まで私の人生を支えてきてくれた「旧・自己犠牲」ちゃん、ありがとう。
これからのパートナーとなってくれる「新・自己犠牲」ちゃん、よろしくね。