愛着障害。
両親の、特に母親との関係性の中で愛との適切な距離感を育むことができなかった心の特性のことを言います。障害、とついていますが、私の思う限り、どんな人の中にも潜んでいる、心の資質、素養のようなものではないかと。
私自身、愛着障害です。二年前にまったくの偶然からそのことに気づきました。それから二年間、徹底的に自分と向き合い、その結果、おそらく、ですが、「真ん中」により近い感覚のところまで戻ることができました。それでもまだフラフラすることはあるはずですけど。
さて、この「愛着障害」。日本では精神医療や心理学などはどちらかと置いてきぼりにされているところが多く、ほとんどの場合はその認識がないまま人生を終えるような気がします。
それはそれでその方の人生なので良いも悪いもないのですが、もし気づいた場合にはどうやらこんなお役目が託されているようですよ、ということをお伝えしたいと思いました。
まず、どうして愛着障害になるのでしょうか。
私たちは子供の時に自分の期待通りに両親が接してくれないと「分離感」を感じるようになっていて、その「分離感」、つまり「切り離された感覚」を深めていくことによって、本来の愛との違いが自分の中で大きくなっていき、結果、愛との適切な距離感がつかめないまま「愛着障害」が顕著になる、というプロセスが一般的なようです。
元々は一つだと認識していたもの。それが「分離していたんだ。別々なものなんだ」と感じるようになり、ますます分離の道を突き進んでしまう。
では、どうすれば愛着障害の傾向を緩和することができるのでしょうか。
それは「自己統合」を深めていくことです。自分と外の世界を分離させて成長したため、なかなか元々ある「すべては一つ」、という意識は感じられません。それを自分自身で自分自身の中に統合していくのです。一つ一つ、外の世界と思えるものを。分離しているように感じられるものを。すると元々の「すべては一つ、みんなつながっている」という意識に近づいていくようになります。
逆の視方をすると、私たちは自己統合というプロセスの喜びを味わうために、愛着障害というツールを活用できる、という考え方もできるわけです。
つまり、愛着障害の傾向が顕著にあらわれた人の人生の課題は「統合の喜びを知ること」によって、元々の「すべてはひとつ」という感覚を思い出す、ということが言えるのではないでしょうか。
分離と統合のこのテーマを共に自分自身で味わうことによって、すべては一つだったんだ、すべては一つによる愛とはこういうものなんだ、とその想いをたくさんの人に感じてもらう。それが愛着障害の大切なお役目なのではないかと。
とすると愛着障害はハンデでもあり、メリットでもあり、ということになるのかもしれません。
どちらの側面にフォーカスするのかもその人の人生の課題によるもの。
私の場合は、愛着障害を一旦ハンデとして受け容れることで、さまざまなプロセス案が浮かびあがり、それを実践したらその道の先に大きな光が視えたという、遠回りではあるけれど、メリット獲得のツールをうまい塩梅で活用させてもらえた、というような気持ちを抱いています。もちろん、その途中では苦しみ、もがき続けたのも事実です。
今後も私の人生のテーマが「愛」であることに変わりはありません。「愛着障害」だからこそ感じられる「愛」の本質、トコトン味わっていきたいな、が今の本心です。
私は自分の性格を「超」が付くほどの直球タイプだと思っていました。
どうやらそれも一つの側面だけど、「超変化球」タイプの側面もあるみたい。
今、私は二年前、自分が愛着障害と気づくまではまったく視えていなかった地球の裏側をのぞいている感覚です。愛着障害によって楽しみが倍加した、ということのようですよ。
愛着障害もまた「Gift」だったということの証。
もしかしたら私だけではなく、あなたにも与えられた「Gift」かもしれません。気付いた方はリボンを解いて愛着障害と仲良くする方法を探ってみてはいかがでしょう。あなたに合った方法で。まずは愛着障害とハグをして、お互いの愛と信頼を深めてから。
愛着障害に限らず人生のハードルはどんなものでも、人生により鮮やかな彩りと豊かさと奥深さを添えるための、大切な道具なのかもしれませんね。
私は欲張ってこのハードルをたくさん設定してきたタイプみたいです。しょうがないな 笑、一個一個思う存分味わうとしますか。