今朝、私はこう感じました。
「私たちは人のことが好きで好きで仕方ない」生き物なんだな、ということに。
私たちは本質的に人のことが好きなのです。
お父さん、お母さんのことが好きなのです。
兄弟、姉妹のことが好きなのです。
おじいちゃん、おばあちゃんのことが好きなのです。
あの人のこと、この人のことが好きなのです。
自分のことが好きなのです。
本質的に、というのは潜在意識では、という意味です。
どんなに顕在意識が「そんなことないわよ。私はあの人のことが大嫌いだもの」と感じていたとしても。
私自身、好きな人もいれば嫌いな人もいます。
が、潜在意識では「みぃんな大好き」と叫んでいる自分がいるんだ、と個人的にですけど、そんなことを感じました。
好きという気持ちがそのまま「プラス」の方向に出てくれれば私たちは「ああ、あの人のこと好きなの」と顕在意識で感じることができます。
一方、好きという気持ちが「マイナス」の方向に出できたときは私たちは「あんな人、大嫌い」と顕在意識で感じることになります。
好きな人がこちらの期待に応えてくれた時。
好きな人がこちらの期待に応えてくれなかった時。
その違いで「好き」な気持ちのエネルギーが「プラス」か「マイナス」かに向いてしまう。
そしてその大元は「あの人が好き」という意識のエネルギーだということ、潜在意識のエネルギー。
例えば私たちは生まれる前に「大好きなお父さん、お母さん」を自分で選んで、この世に生を授かります。
「お父さん、お母さん、大好きだよ」だよの想いと共に。
ところがいざ生まれてみたら、自分がしてほしいこと、自分の気持ちを理解してほしいこと、そのことにお母さんが十分に応えてくれません。
すると私たちの心の中に「なぜ、私を受け容れてくれないの」という気持ちが芽生え始めます。
その、大元の「受け容れてもらえなかったかわいそうな私」という想いはずっとずっと心の中で力をつけ続け、その後出逢うたくさんの人にその想いを投影しはじめてしまうのです。
「この人のこと大好きなのに、この人もまた私のことを受け容れてくれなかったわ。だから私はこの人のことは大嫌い」
と。一見「人嫌い」、「人とのおつきあいが苦手」というタイプは実は小さい頃から大好きな人との関係の中で「期待に応えてもらえなかった」淋しさから、「好き」を「嫌い」に変換してしまう心の癖がついてしまっただけ。
本当は「人が大好き」「上手に人と付き合える」という誰もがもっているその想いと力を携えているのに。
「私は孤独だ。私は誰からも愛されない」
そんな想いがますます「人が好き」な自分を遠ざけてしまって、負のループにはまっていく。
心の仕組みからそのことを視ていくと、改善方法はおのずと視えてくるものではないでしょうか。
「人が好き」がデフォルトなら、私たちは「あの人のことが好き」という想いの時に心地よさを感じます。一方、「あの人のことが嫌い」と感じている時は心にストレスを感じています。
まず、「私たちは人のことが好きで好きで仕方ないんだ」という事実を受け容れます。
次に自分の周りを本当に自分の好きなもので満たします。
もし「何が好きなのかよくわからない」という場合は、「自分自身の中の好き」を探していきます。
「穏やかな性格の私が好き」
「がんばり屋さんの私が好き」
「友だちの多い私が好き」
「きれい好きな私が好き」
「お料理の得意な私が好き」
「記憶力のいい私が好き」
なんでもかまいません。まず自分が長所だと思うことから。
その次に「好き」と無理やり思うのではなくありのままを受け容れる、受容のプロセスに入ります。
「私は人のことが好きで好きで仕方ないのに、なぜか嫌いな人を引き寄せてしまう」とか「私は人のことが好きで好きで仕方ないのに、それでも好き、という感情がいまひとつよくわからない」とか。
良い、悪いではなく、ただただその事実を受け容れていきます。
どちらかというと自分のいやなところ、嫌いなところにフォーカスして。
その事実が存在する、ということを認め、自分の中に居場所を創っていきます、それらの事実、一つ一つ。
すると結果的に「自分の中の嫌いな部分」が少なくなっていくため、今度は「好き」のエネルギーが強くなって、
「自分の〇〇が好き」と自然に感じられる機会が増え、さらに「あの人のこんなところが好き」「あの人、前は嫌いだったけど気にならなくなった」「あの人、本当はこういう素敵なところがあったんだ。なんかいいな、あの人」といった意識が増えてきます。
この心の流れを自分で創っていく。時間がかかっても。自分にしかできないことだから。
私自身はこのプロセスが先でした。その後に、「ああ、私たちは人のことが好き好きで仕方ないんだ」という想いにたどり着きました。
「あの人のことが大嫌いで嫌いだったのではなく、本当は好きだから嫌いだったんだ」と思った途端、ものすごく自分の性格が「良い」ものに思えてきました。愛おしく感じられました。不思議ですね。
「私は人のことを好きになれない、屈折した性格の持ち主」だったわけではなく、「好きだからこそ期待が大きすぎて、嫌いという感情を選ばざるを得なかったんだ」「でも元々は好きなんだから、好きになれるチャンスがいっぱいあるということだよね」「好きになれるチャンスがいっぱいあるって楽しいし、素敵なことだよね」「なぜあの人のことが嫌いなのか、その嫌いなところこそ自分自身の心のあらわれなのかもしれないから自分自身のことに照らし合わせてみよう」と、気持ちが「前」に向きました。
おそらく、これがスタンダード、デフォルトなんじゃないでしょうか、私たちみんなの。
私にもまだまだ嫌いな人、苦手な人がいます。そういう人の中にこそ、自分のリソースになる要素が隠されています。意識の反転のチャンスがたくさんあるのです。
「私はみんなのことが大好きだったんだ」
今まで何回も感じながら、それが本当なのか、自分でもよくわからなかった。決定打にかけていました。
今の私には「そういうことなんだ」と感じられます。今後、またこの想いが変わる時があるかもしれないけれど、今、そう思えるその事実が嬉しいです。
心の底から。
「いやよ、いやよも好きのうち」ってありますよね。えっ、知らない ? まっ、それはそれで置いといて 笑。
私たちの中には「好き」という感情も「嫌い」という感情もあってあたりまえ。どちらも「等価」です、良い、悪いはありません。
「嫌い」が出てきたからと言って退けないでください。「好き」に転じるチャンスの到来ですから。
焦らない、自分のペースで。うまくいかなくてもまた次のチャンスがやってきてくれます。
私は、この流れが私のハートの中から自然に沸き起こってきてくれたその事実が嬉しくてたまりません。何かの本を参考にしたのではない、私の今の本心です。
ハートに響かない、という方やさらにむかつく、という方がいらしてもいいんです。それはその方のお気持ちですもの。良い、悪い、ではなく。
私はそう思う、そう感じる、と声に出せる気持ちよさの方が数段私にとっては大切なものだとわかりました。
人の気持ちを無視するのではなく、「ああ、あなたはそう思うんですね」と相手のあるがままを受け容れることができるようになりつつある自分がとてつもなく愛おしい気分です。
もしもどうしても誰のことも好きになれなくて、自分のことも好きになれなくて。そんな時間がずっと続いてしまうとしたら、その事実を受け容れます。
それがその方の今生での人生の課題なのかもしれませんから。
罪悪感ではなく、ただ認め、受け容れる。そのうち心の風向きがふと変わる時まで。