いよいよ私の潜在意識、フル稼働状態に入ったようです。
「ぜいたくは敵」
この言葉は亡き父がよく言っていたものです。父は職人で、まじめで頑固。優しいところもあるけれど「かたくなな」くらい何かにとらわれて生きていました。
その父が何かというと「ぜいたくは敵」と言っていて、正直子供の私にはよくわかりませんでしたが、ある程度成長すると、その言葉がうっとうしくて仕方ありませんでした。
私が自分からこの言葉を口にすることはなくても、時々主人が口にするので「うるさいな」といつも嫌な気持ちになっていました。
父も主人も「つつましやかに生きろ」という言葉が人生の指針になっているのでしょうか。その根底にあるのは「清貧意識」でしょうか。
ランチをいただいていたら、ふと浮かんできたのです、「ぜいたくは敵だ」。ということはしっかり私の中に刷り込まれてしまっている。けれど今までは、「関係ないから」と切り捨ててきたのですが、きょうは、「よぉし、感じきってやる」と思い、ランチを一口いただくことに「ぜいたくは敵」という意識を飲み込むことにしました。
家に戻り、調べてみたら、なんとこの言葉はそもそも「自分たちより贅沢をしているアメリカは自分たちの敵だ」という意味のものなんだとか。さらに、「基本的に平等に貧しくならないと気が済まない。日本人は出る杭はうたれなければならないと考えているから」との内容も。
興味のある方は、Uncyclopediaで調べてみるとおもしろいかもしれません。「ぜいたくは敵だ」を検索したらヒットしました。
すごいですね、みんなで豊かになろう、ではなく、みんなで貧しくなろうと言い切っているなんて。大東亜戦争や太平洋戦争の時はさらにたくさんの制限をかけていたようです、国民全体に、一人一人に。
この意識と共に、私たちのおじいさん、おばあさん以上の人たちは生きていたのです。私たちの両親がその刷り込みの中で生きていたのは当然のこと。であれば当然その刷り込みは私たちにも受け継がれているのです。
この、社会全体の刷り込みを社会通念と言います。私たちはたくさんの社会通念と共に生きています。
その中でも生存欲求の基本ともいうべき「物質欲」「金銭欲」を否定し続けている考え方ですから、世界がフラットに豊かになることはなく、どうしたってピラミッド社会の中で「富める人」「貧しい人」の分類の中におさまるしかありません。
循環システムとは程遠い、人々の希望を奪う意識がここにあるのではないでしょうか。
それでもそういう過去があるからこそ、私たちは今の時代に生きていられるのです。
ご先祖さまに「ありがとう」の気持ちをこめて「ぜいたくは敵だ」の意識を自分の中に統合させてもらいました。
私たちにとって必要なのはぜたいくではなく、潤沢ではないでしょうか。金銭や物質だけではなく、精神的なものも含めて真の意味での「豊穣」。
このエネルギーをブロックしていたのが「ぜいたくは敵」だというエネルギーだとしたら。
いくら豊かさを求めていてもなかなか豊かさが循環する感覚を確信できない。
そんな方は、「ぜいたくは敵だ」とご自身なりに感じてみてはどうでしょう。その意味をたどるところから。
私はもちろん豊かさを望むけれど、自分だけが豊かであればいいとは思いません。けれどその第一歩は自分の心を潤沢にして、自分自身を大切な資産として確固たる自分を築いていくことにあるのではないでしょうか。
人を妬んで「ぜいたくは敵」と感じていても始まらないし、そもそも母なる地球は人々に豊かな生活をしてほしいと望んでいるのではないでしょうか。みんなでシェアするのよ、私の豊かさを。そして豊かさを大きく循環していくのよ、と。
奪い合いなさい、徹底的に敵をやっつけて。
なぁんてことは地球はこれっぼつちも望んでいないはず。
認知の歪みは誰にでもあるもの。でも気づいたら直すことはできる、自分の意思で。それが大きな意味での「自然治癒力」だと私は思います。「自然治癒力」は働かせなければ怠けてしまう。その力を思う存分発揮してくれなくなるのです。
「自然治癒力」の潜在能力を思い切り引き出すのが、私たち一人一人に与えられた大いなるお役目です。心や意識についても。