絶望感をトコトン味わった先にみえるものは

あなたは「絶望感」感じたことがありますか。

 

誰でも生きていれば何回か絶望感を感じるのではないでしょうか。

 

きのうのこと。私の住むマンションの敷地内で不思議な出来事が起きました。

 

主人と私とで愛犬・華実とのお散歩に行こうと家を出ると、少し先に女性が倒れています。そばに自転車でお子さんを連れた男性の姿。はじめ、ご夫婦で歩いていて、ママさんが突然倒れてしまったのかしらと思いましたが、まったく赤の他人だということがすぐわかりました。

 

その男性の話によると、その女性はタクシーにのってマンションの敷地に戻り、タクシーを降りてすぐに倒れてしまったんだとか。

 

「大丈夫ですか」

 

話しかけるとロレツが回っていません。アルコールのにおいなし。おそらく、何らかのドラッグ ?  あるいは睡眠薬 ?

 

「足が痛くてたてないんです」

 

主人が支え、起こそうとしますがすぐにまた地面に座り込んでしまいます。

 

「救急車、呼びましょうか」

 

私は管理人室に走り、ことの状況を管理人さんとガードマンに伝えます。その後しばらくして管理人さんと共にご家族の人らしい女性がその場にやってきます。

 

何が不思議だったのか。

 

女性は私たちに対して、何度も「すみません」とあやまっていたこと。

「ご家族は ? 」と聴くと「誰もいません」と答えていたこと。

こちらが聴くと名前や部屋番は言えるのに、電話をしようとしないこと。

目の焦点が合っていないこと。

 

そして、しばらくしてその場にあらわれたご家族の方にまるで精気が感じられないこと。私たちを見ても何も言葉を発しません。

 

深入りをすべきではないので、救急隊員の方におおまかな状況をお話し、あとは管理人さんとご家族の方にお任せしようとその場を立ち去りました。

 

その後5分もしないうちに、豪雨。

 

「あ、浄化だ」

 

そう思ってお散歩はとりやめにしました。途中で傘を買いましたが、華実はびっしょり。

 

家に帰っても、何かが気になって。でもあまり気持ちいいものではなかったので、意識の切り替えをしようと。

 

そして今朝。明け方、かなりの空咳が出て同時にタン。私は普段はほとんどタンは出ません。

 

何だろう、このメッセージは、と思い調べてみました。なんでも空咳によるタンは「もうこの感情とはおさらばしよう」という前向きな気持ちのあらわれなんだとか。では「この」は何をあらわしているのか。

 

その時、すぅっときのうの女性のことが浮かんできて、「あ、絶望感だ」とわかったのです。彼女は何らかの理由があって人生に絶望している。それで何らかのドラッグの類に頼った。けれど多分それは一度や二度のことではなくて。同時にご家族の方も絶望している。

 

「家族は誰もいないんです」の言葉はお互いに「私には家族なんていない」と感じている深い絶望感のあらわれだったのではないでしょうか。

 

「すみません、すみません」は「生まれてしまってごめんなさい」なのか「生きててごめんなさい」なのか、「こんなところに存在してごめんなさい」なのか、強い自己否定の想い。

 

「足が痛くてたてない」。地に足がまったくついていない。

 

彼女の目がうつろだったのも、ロレツが回っていなかったのも、心ここにあらず。つまり「私は生きてはいない。生きることにものすごく絶望感を感じたから。ここにはいたくないの」のメッセージなのではないかと。

 

現象として、そのような一連の流れが私の目の前で起きました。

 

その後、浄化の雨。

 

そして、今朝のタン。

 

あの彼女はもしかしたら、私自身の姿だったのかもしれません。

 

「私には私を支えてくれる家族なんて一人もいないの」

「ごめんなさい、こんな私がここにいて」

「生きていたくない。地に足つけてここにいたくない」

「私は人生のすべてに絶望しか感じられないんだもの」

 

前々エッセイ『悪魔のささやき』でお話した、私の中の悪魔意識のあらわれなのではないでしょうか。そしておそらく、これは集合意識ともつながっている。

 

私たちはこの世に生まれて、必ず何回か人生に絶望し、もうこんなところにいたくはないと、きっと潜在意識ではそんなことを感じる機会があるのです。けれどそれはあまりにも哀しくてあまりにもやりきれない感情なので、その感情を置き去りにしてしまう。排除しようとするんです、エゴの力で。感じないように。

 

絶望感にも居場所を創って、「ごめんね、ここにいてくれたのにずっとみてみないフリをしてしまって。大丈夫、安心してここにいて。あなたが淋しすぎてつらくならないように私はあなたのあるがままをみているから。あるがままのあなたの姿をちゃんと見守っているから」。

 

そう心の底から感じられた時、私たちの絶望感は気持ちが落ち着いて暴走をしなくなります。

 

その先に視えるのは、その絶望感を包み込む大いなる希望なのです。

絶望感と希望が手に手を取り合って、「絶対大丈夫」と感じ合えた時、希望優位の意識へと反転が起きます。

 

私たちは他者に自分自身の「自己」「自我」を反映、投影することで自分自身の本当の気持ちを知ることができる生き物です。その中には「天使意識」も「悪魔意識」もある。その両方を認めることが大切。そして大きな「悪魔意識」であればあるほど「天使意識」も大きくなる。

 

絶望感。徹底的な哀しみの感情。

 

これを感じきることで大きな希望が湧いてくる。喜びの感情。

 

これが心の自然治癒力の仕組みです。

 

当エッセイの前に別のエッセイを執筆していたのですが、どうしてもアップできない。

 

当エッセイを先にアップして、絶望感を希望に転じなさいというあちらの世界からの愛をキャッチしていたからなのかもしれませんね。

 

ここまで執筆したら、胸にエネルギーがパツパツになって、う~、苦しい。

 

これが愛なのかしら。

 

ものすごいエネルギーです。

 

きのうの女性はお役目をもって私の前にあらわれてくれた。それに対して、私はこういうことを感じて発信している。これを読むあなたの中に何かの変化があらわれる。

 

こうやってエネルギーは循環していきます。意図的に「人の役に立ちたい」と思わなくても自然に誰かの役に立つようになっています。それが宇宙の秩序です。

 

自分のこの世でのその時の役割を淡々と粛々と演じる。それが大いなる一つとして「生きる」ということなのかもしれませんね。

 

 

 

 

 

 

 

 

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