当エッセイは、「ひかりのしずく」シリーズとして一年前にスタートしたもの。前エッセイ「悪魔のささやき」執筆後、たまたまコンテンツ数を確認したら、ちょうど「301」個めのエッセイであることがわかりました。
たまたま。
そう。私はコンテンツ数をこまめにチェックするタイプではありません。
なぜならADHD気質だから。行き当たりばったりタイプ。よくもわるくも。
なぜかふと確認をしたくなって、そうしたら「301」だったのです。何か意味があるのかもしれませんね。
当エッセイシリーズは、かなり顕著に光の存在の関与が感じられるもの。現在2か月も公式ブログを放置してしまっているのも「彼ら」の意思が優先されているからなのだと感じています。
前回の201記事は2018年7月13日でした。そう考えるとブログ「放置」スタートとほぼ同時期。なるほど。やっぱり意味のあることみたい。
当シリーズを執筆していて楽しいのは、
一つには
〇 自分の開示がスムーズにできるようになったこと
そしてもう一つには
〇 あちらの存在から何らかのお返事が届く感覚が感じられること
でしょうか。エネルギーの循環、コミュニケーションが当エッセイを通じて行われるのです。目に見えないあちらの世界と。
また書くことによる「自己表現」と同時に何らかのヒーリング効果が生まれていることを体感できるという楽しみがあります。
これは精神医療などの世界で言われる「筆記療法」の考え方と同じようなものなのかもしれません。
ただし、私の場合、「ルール」は作りません。その時心に浮かんできたものを備忘録の意味合いも含めながら、ただただ書いていく。呼吸をするのと同じです。流れに任せます。
「書かなくては」という義務感はゼロ。むしろ「もっともっと書きたいな」という意欲がわいてくるほどです。誰かに守られているという感覚の中で執筆が進みます。
だから気持ちいい。
時々、何回も執筆しなおしの指示が入って、その時はなかなかエッセイをアップすることができません。ただし、そのエッセイをアップすると必ずと言っていいほど大きなヒーリングが起こります。
私はセルフでのヒーリングもできるのですが、自分の心を知る、という意味では当エッセイ執筆の方が時間もかからないし集中力も少なくてすむので効率の良さを体感しています。
一年前にシリーズをスタートした時は、いったい私はどこに向かっているのだろうと不安になることも少なくありませんでした。
が一年経つと、ちゃんと道筋はあったのだな、と安心することができました。
心に迷いが生じた時、自分のこころが視えなくなった時、「書く」、あるいは「描く」ことによって自分自身に近づくことができるという事実がわかりました。
むずかしいことは考えず、ただ書く。
素晴らしいGiftを大いなる存在は人間に授けてくれましたね。使わせてもらわなければもったいない。そんな気さえしています。
どこまで続くのか。それともすぐに方向転換があるのか。何もわかりません。けれど安心して任せられる存在の導きだということはわかります。ナビゲーターは魂なのです、まちがいなく。
その事実がストンと腑に落ちる。その体感はどなたかのお役に立てるものなのかもしれませんね。
ちなみに前エッセイ「悪魔のささやき」執筆開始時間は2018年09月18日8時8分。8が4つも並んでいます。それだけでもなんだか嬉しい気分になってしまうのは、本当に嬉しい何かが待ってくれているからなのでしょう。
書くことで現実が変わる、視えてくることの体験真っただ中にあります。
肉体優位のこの手の行為、作業はグラウンディング作用にもつながります。
しっかり地に足つけて、一歩ずつ前に進む。あたりまえの中にこそ至福の時が流れてくれるのかもしれません。特別な何かを求めなくても。私たちははじめから特別であり、同時に普通の存在でもあるのですから。誰でも同じように、公平に。