「この地球に命を授かって良かった」
きょう、生まれてはじめて心の底からそう感じることができました。
「私をこの地球に送り込んでくれた存在に心からありがとう」の想いと共に。
あの、亡き両親と、あの兄たちと、あの家に心からありがとう、とも。
私は「愛着障害」という心の特性をもって生まれてきました。「愛着障害」とは幼いころに特に母親から自分が望むような愛を受けたと感じることができず、その後成長してからも愛との適切な距離感がつかめず苦しむ心の傾向のことを言います。「障害」という言葉がついているのでともすれば特異に感じる場合もあるかもしれませんが、その度合いのグラデーションはあるにしても、私はすべての人の中に潜在的に備わっている心の特質だと感じています。
二年前、ふとしたことから自分が愛着障害であるらしいと気づきました。気づいてしまった以上改善しなくてはと思い、自己流で、本当に自己流にその方法論を模索し続けてきました。その途中で愛着障害の人にはさまざまなパーソナリティー障害( = 人格障害 )の傾向があらわれるらしいことを知りました。
その特性を追ってみたら、出てくる、出てくる。日常生活に支障はない範囲ですが、かなりの種類のパーソナリティー障害の特徴が自分自身の性格の特徴と合致しました。
なるほど。
すべての人の中に「愛着障害」の潜在的気質が備わっているのと同じように、すべての人の中になんらかの「パーソナリティー障害」の潜在的気質が備わっているのだろう、と個人的にですが、ほぼ確信しました。それを「病気」や「障害」と見るか、個性と見るか、さらにはまったくないものと捉えるか、人の捉え方にはそんな傾向があるのだろうと気づいたのです。
私の場合、その顕著なものはパーソナリティー障害とは同一ではないもののそれなりに特徴的な注意欠如・多動性障害 ( ADHD )。さらにこれはきょう感じたばかりなのですが、境界性の特徴が強く出ていた時もあるのだろう、と。
一つ一つをつぶしていても仕方ない。というか、明確な線引きはなかなかむずかしそうだな、と感じました。
ただただ自分に向き合い、自分を肯定していく。自分を丸ごと受け止めていく。
正直その方法論しか私には浮かびませんでした。
まず、愛着障害の大元の要因とも思える両親との課題に徹底的に向き合いました。両親は他界しているので協力してもらうことはできません。自分の想像、憶測で両親の課題を自分の中に統合したのです。兄との課題にも向き合いました。そうして、自分の家族の課題、そのほとんどは本当は感じたくはないネガティブな感情ばかりでした。それらを一つ一つ自分の中に落とし込んで居場所を創りました。
さらに自分自身の課題。一般的には「闇」と言われるネガティブな感情にも。同時に集合意識、集合想念と呼ばれる中の、特に「ディープなネガティブ」な意識の統合作業を続けました。
先日のこと。やっと自分の中に心の安全基地が存在していたことに気づくことができました。さまざまなネガティブが私の中で光に転じてくれたようです。
さらにきょうの、冒頭の感覚です。「ああ、本当に愛着障害で良かった」と感極まる想い。これは頭が言ってる言葉ではなく、心の底から感じた感覚、同時にストンと腑に落ちる感覚も味わいました。
私は愛着障害だからこその人生を歩んできました。愛着障害だからこそ、愛の本質を撤退的に追い続けることができました。愛着障害と気づく前の自分の人生も、また気づいてからの自分の人生も含めて、いつも私の人生のテーマは「愛」だったのです。
本当の愛とは何なんだろう。
どこにあるんだろう。
どんなものなんだろう。
その答えがやっと見え始めました。
徹底的な自己受容と自己肯定、自己信頼、そして自己愛です。
このすべてが自分の中に光として満たされた時、ようやく私たちは愛の本質を想い出すことができる。
そのことがきょう、私の中から浮かびあがってきてくれました。
心理学的に「自己愛」というとナルシストのことを意味するのですが、ここでの「自己愛」は文字通り、自分を愛するということ、自分の本質や価値を尊重する、リスペクトする、という意味です。宗教的な「利他」とは異なる、けれど人間にとって絶対的に必要な命の源のエネルギーのことです。
ここを見落としていればどんなに「奉仕」や「救済」を実践しても人は救われない。あくまでも個人的にですが、このことを確信することができました。
愛着障害でなければここまで時間はかからなかったでしょう。けれど愛着障害でなければもしかしたら、そもそも愛の本質を探究する想いなどわかなかったのではないでしょうか。
愛着障害だったからこそ、愛を欲し、ではその愛の本質はなんなんだろう、と人生の意味を探ることができたような気がします。
なんでも誕生数秘の伝統によると私は「マスターナンバー33」。その意味は「愛の奉仕人」なんだそうです。十数年前そのことを知った時、なんてハードルの高い人生なんだ、と思ったことを今でもはっきりと覚えています。
高いハードルをこえるには高い跳躍力が必要です。その跳躍力が私の場合、「愛着障害」だったのです。
「愛の奉仕人」として生きるためには一度「愛」をうしなわなければならなかった。生まれ持った愛の気質を。そして両親の元で私は「ありのままの自分でいたら人からは十分な愛は得られないんだ」というものすごい絶望感を味わい、ものすごい愛の飢餓感を感じ、そしてその本質は何なのか徹底的に悩み続け、やっと自分の真ん中に愛の灯をともす日にたどりつけたのです。
ちなみに私の両親は、両親のできる範囲で私を大切に育ててくれていました。ただその愛し方、慈しみ方が私の満足のいくものではなかったというだけです。
今になればわかります。両親はさまざまな愛を投げかけてくれていたのに、私がそれを「こんなのは愛なんかじゃない」と拒絶しまくっていたんだという事実。なんと潜在意識というのは頑固でわがままなものなのか。しかも、それが私の人生の課題だったわけですから何とも驚いてしまいますけど。その潜在意識の存在に気づかないまま人生のほとんどを過ごしてきてしまったツケがこの二年に集約されていたことを感じました。
けれどそのすべてがあったからこその今までの人生、そして「今」なのだときょうはっきりわかりました。すべてが必然だと。
「大丈夫だよ。あなたはあなたのままで本当に大丈夫なの。安心して。そのままのあなたでいることがあなたにとってのベストなんだから。あなたは安全なの、あなたのままで。どこまでいっても安全だから。あなたの居場所はここだから。あなたのいる、あなたがあるそこが、あなたの居場所だから」
私たちは心の安全基地があると安心して生きられます。ああ、このままでいいんだな、と心の底から自分を認めることができます。
それができなくなってしまっている人があまりにも多すぎて、この世の中には哀しい出来事がたくさん起きています。私もその中の一人です。
それを緩和し、みんなで安心して生きられるようになるには「愛の放射」が必要です。真実の愛の放射です。それを形にしていけそうな予感がわいてきました、やっと。
まずは自分、です。まず他人、ではありません。
「利他」という言葉は素敵な響きをもっていますが一度思い切って忘れてしまいませんか。まず「自己愛」「自尊心」です。「利他」を意識した時点でそれは「利他」ではなくなるのではないでしょうか。
私たちは存在しているだけで誰かの役に立っています。誰かに「ありがとう」と言われなくても、必要とされているから生きている。それ自体が利他なのではないでしょうか。無意識のうちの「利他」。
愛に苦しむ友へ。
信愛なる仲間へ。
私たちは愛の存在です。思い出しましょう。私たちの中は愛でいっぱいだという真実を。
ここまで書いたら胸がいっぱいになってしまいました。
私は愛着障害という個性も、私の家族も大好きです。両親と兄は他界してしまったけれど、やっときょうそのことがわかりました。これからは主人と愛犬・華実と愛猫・海・うみと楽しくやっていこう。思う存分。
心理学者のユングは人類はすべて「真の同胞」との説を唱えています。自分の中の無意識を探ることは全人類でシェアできる意識にたどり着くことだと。私は心理学を専門的に学んだわけではありませんが、この考え方が大好きです。ハートが響きまくります。自分が「愛」ならすべての人に「愛」が投影されるはず。その実践、実体験のために私たちはこの地球にやってきたのだろうと思えるから。
一般的には私は愛着障害をセルフで克服したと言えるのかもしれません。が、私にとって愛着障害は大切な個性であり宝物なので自分の中に大事に抱きかかえることにしました。
自分のすべてを包み込み、抱きしめる。
それが私の感じる「愛」だから。
当エッセイを書き終えて愛犬・華実とお散歩に行きました。きょうの夕陽は以前旅先のマレーシアでみた夕陽と同じ。真っ赤でまん丸。マジェンダと呼ばれるような少し青みかがった赤です。太陽が祝福してくれているんだな、私の命を。すべてがまるごと肯定してくれているのだな、とさらに自己肯定が進みました。
これはすべての人類に対するメッセージなのではないでしょうか。
ものすごく時間がかかったし孤独感も感じたし、大変だったけれど、やりがいのある宿題でした。
この日がやってきてよかった。
生まれてきてよかった。
生きててよかった。
愛着障害でよかった。
必要なあなたへ。
目をそむけたくなるような個性にこそ、本当の愛が託されています。安心して近寄って思い切り抱きしめてあげませんか。あなたにしかできないこと。あなたでなければできないこと。