□ 犠牲者の役割を終える
「自己犠牲」、ずっと私の中にくすぶっていた概念です。
一般的には「自己犠牲」は良いもの、麗しいものとの解釈がありますが、個人的にどうもひっかかる。
例えば犠牲者の役割の人は加害者の役割の人やモノに依存していないでしょうか。
加害者という他者がいなければ犠牲者にはなれません。
また犠牲者になることで加害者や、その犠牲者を助けられなかった人に「罪悪感」を抱かせはしないでしょうか。
犠牲者であるということは、いつも責任の所在を「外」「他」に求めていないでしょうか。
おそらく宗教的教義とは真逆の解釈が私の中で行われているのだと思います。
自己犠牲。
犠牲者。
それって「ドM」のことではないですか。
痛めつけられて喜ぶ。
痛みがあるからこそ自分を感じられる。
例えばリスト・カットのように。
逆にいうと、外からの痛みがなければ自分を感じられない。
ということは「自分」がないのでは。
「自分」が主体でないのでは。
あくまでも、私の個人的とらえ方です。
けれどこれが視えてわかったのです。
自己犠牲、あるいは犠牲者の役割は「自己欺瞞」に基づいたものだと。
自分で自分を欺く行為だと。
自己肯定ではなく、自己否定だと。自分自身を抹殺するために。
私はきっとずっと「犠牲者の役割」を演じていた。
その方が私にとっては心地よいことだから。
誰かに、あるいは何かに痛めつけられる自分を味わっていた。
けれど「犠牲者の役割は終わった、終わりの時がきた」ときょう、その感覚がものすごく強くわいてきました。
私の人生の責任者は私。
他の誰でもありません。
私は私と向き合うことで自分を感じることができるのです、外からの痛みを必要としなくても。
自己欺瞞とは自分の魂を腐敗させることにつながらないでしょうか。少なくとも私の意識はそう感じています。
もちろんそれも人生の課題であるならそれでいいんです。
価値は同じ、すべて同じ。
私の意識の書き換えは今までの価値観を真逆にするほどの力を持っているようです。
他の方に共感してほしいから、承認してほしいから、ではなく、私のハートに響いてほしいから。
私が私自身でいたいから。
私自身とつながっていたいから。
心理学の概念が私自身を生き返らせてくれました。
私にとっては、のこちらの世界へと呼び戻してくれました。
私の人生においては、のお話です。
誰もがこのお話に同意、賛同、共感してくれるとは思いません。
自己犠牲は美しいものなのよ、と感じる方がいらっしゃるのは当然です。
何言ってるのよ、むかつく、と感じる方がいらっしゃるのも当然です。
それでいいんです。
それがいいんです。
なぜなら、みんな必要な命だから。
この地球において、宇宙において。
みんな役割が違うから。
同じ命は二つとしてないから。
「ドM」な私に「ありがとう、おつかれさま」、そして「さようなら」。
もう大丈夫。
過去の私は私の人生の勲章でもあるのです。
勲章を自らけなしたり、反省したりはいらない。
いま、ここにいる自分を感じるだけで大丈夫だってわかったから。
私は私の人生を歩むためにこの世に生を授かりました。
あなたも。あなた自身の人生を。
バラバラに思えてもどこかで響き合う仲間として。