□「書く」、という人生の喜び
当エッセイ「ひかりのしずく」シリーズは2017/09/08、突如執筆のサインが届いて書きはじめたものです。
当サイトは2015/08/08に開設しました。
パソコンが得意ではないため開設後は放置状態でした。
ところが当エッセイを書き始めた途端に自分の中で大きな変化が起こるのを体感させてもらいました。
当初はブログやメール・マガジンなどと同じように、何かを調べながら、の執筆が多かったのですが、すぐに何もしなくても何かが浮かんでくる感覚へと変わりました。
精神世界の伝統による「チャネリング」が起きていることを確信しました。
「チャネリング」の解釈は人それぞれですね。
私はその時、すべての人が「チャネリング」をしていると感じました。
無意識のうちに。
例えば芸術家、ミュージシャンなどは「神の降臨」というような作品、あるいはパフォーマンスを披露している方がたくさんいます。
スポーツ選手もそう。
そして私のような作家も、です。
同時に私はカウンセラーでもあるわけですが、カウンセリング時にも何らかの情報をキャッチして、何らかの情報にリードされていることを何回も体感しました。
もちろんヒーリング時にも。
言葉をかえれば、私の肉体を何者かが通り抜けて、さまざまな作業、行為を楽しんでいるのだろうと。そんな感覚です。
これは「誰か」に限ったことではなく、すべての人に起きていることなのだ、と確信しました。
その人が得意とすること、つまりそれが天職と言われるものならなおさらそれは顕著になるのかもしれません。
それを意識しているか、無意識でいるかの違い。
その度合いが他の人より強い人、そうではない人がいるのは事実でしょう。
けれど確かに誰もが何らかの外部情報をキャッチしてこの世に生きている、存在している。
その「チャネリング情報」に特定の名称を付ける人もいますし、私のようにただ受け取る、受け渡すタイプもいます。私の場合は「誰が」とか「どこから」とかよりも「何を」の方が大切だと認識しているようです。
その違いはその人の人生の課題によるものなので、何かが優れていて、何かは劣っているか、とか、何かが正しくて、何かは間違っている、というものではないはずです。それらを「ジャッジ」したり「査定」しているのもその人の人生の課題によるものなので、「基本」他者はそのエネルギーに依存する必要はありません。
今はまだその線引きがあいまいで、人の意識を自分の意識としてとらえてしまうケースが多いのは事実なのかもしれません。
さて、その「チャネリング」によって何をしてきたのか。
私の場合は、どうやら「意識の記憶の書き換え」をさせてもらっていたようです。
私は意識を二つに分け、「良い」「悪い」の評価を元にそれらを選別しながら生きてきました。
「良い」ものだけを感じ、「悪い」と感じたものは排除する、あるいは「悪い」とさえ感じないようにするという心の癖がついていたのです。
そのため「悪い」と感じて抑圧しまった意識が私の中で膨れ上がり、時に爆発する傾向にある、という事実に気づきました。
このまま「良い」ことだけ感じようとしていれば、いつか大変なことになる。
自分が壊れる。
自分が自分自身とかい離してしまう。
そう想い、すべての「良くない」ことに光をあてる作業を繰り返してきました。
すると不思議です。
「良くない」ことを一つ一つ受け容れることで自分の真ん中に力が備わってくるようになったのです。
今までの「良い」ものだけを感じていた自分よりはるかに。
これは「良くない」ものにもきちんと存在意義があるという証なのだと感じました。
今まで「良い」「悪い」が基準になっていた私の生き方の大元がひっくり返りました。
「良い」も「悪い」も価値は変わらないと。
それが意識のベースになりました。
すべての「悪い」はすべての「良い」のあらわれ方の違いに過ぎないのだと。
そうやって一つ一つの反転ゲームを楽しみ続けてきたのです。
もちろんその作業はまだ途中です。
けれど一年間の積み重ねは予想以上に心に力をつけてくれました。
本来の自分の片鱗がそこかしこに顔を見せ始めてくれているのです。
時に日に3~4本ものエッセイを執筆していることもあります。
言葉が自然に浮かんでくるため、ほとんど推敲なし。ですから執筆そのものにそれほど時間はかかりません。呼吸をするように執筆ができる、とまではいきませんが、感覚的にはそれに近いものを感じることも少なくありません。
執筆をする。
するとその返事がまた浮かんでくる。
そんな「何者」かとのコミュニケーションが続きます。
当エッセイシリーズはどなたかに読んでいただく、ためというより、その「何者」かとのコミュニケーション目的の方が強いのかもしれません。
もちろん読んでくださるどなたかたのお役に立てているだろうことは確信として感じています。
意識の書き換え作業は自分の意思で行うことができる。特別なツールを使わなくても。
私の場合はパソコン一つです。
これをノートに書いてみたらいかがでしょう。
時々私は思い浮かんだことをノートに書きとどめています。
それは何かのアイディアのようなものでなくても。綺麗な言葉でなくても。
時に「バカヤロー」とかでも、なんでもかまいません、ただ自分の中から出てきたものをペンで記します。「良い」「悪い」の判断はせずに。
その作業は2017/12/06にスタートしています。
書くということ。
きっとそれは「何者か」「どなたか」とのエネルギー交換につながっているはずです。
私の発した言葉に何らかのエネルギーが重ねあわさって、やがて私へと返ってきます。
キャッチ・ボールのように。ブーメランのように。
そのエネルギーはいつも異なります。投げかけたエネルギーと返ってくるエネルギーがまったく同じであることはありません。
一期一会のキャッチ・ボール。
一期一会のエネルギー・コミュニケーションです。
2018年8月くらいから、どうやらこの作業も間もなく一つの目途が付くのだろう、と感じていました。
一年という期間にエネルギーを集中させろ、という指令を受けていたのだろうと。
地球のエネルギーは今、大きく変わっています。
今年に入ってからの自然災害の様子を見てもそれは明らかではないでしょうか。
またそういう時には想いもよらないような突然の別れが起きることを私自身も体験しました。
以前の、大切な友人との突然のお別れの体験。
彼女はあちらの世界で、私はこちらの世界でそれぞれの人生を歩きだしたのです、ある日突然。
私はこの今の地球の中で生きるためのエネルギー変換を「書く」という作業で行わされてきたことに気づきました。
ということは私にとって最大の人生の課題が「書く」ということなのだろうとの再確認のチャンスにもつながりました。またエネルギー変換を行っているということは、私はまだこの地球に残ることを意図して、私自身がそう決めてこの地球にやってきたのだろうとの確信につながりました。
この後当エッセイがどんな展開を見せるのか何より私自身が楽しみで仕方ありません。
そろそろ「読んでもらう」という行為にフィックスできるのか。
「文字と言葉とエネルギーを循環する」という目的にフィックスできるのか。
すべての答えは私の魂が知っています。
魂が導いてくれるその結果に心弾ませる自分自身を思い切り感じたい。
それが「生きる」ということに命を賭けるということなのかもしれません。
私の「生きる目的」、その大きな一つの柱は「書く」ということ。
肉体をもって。
肉体を差し出して、でしょうか。
「書く」ことはどなたにでもできること。
私とは人生の課題が異なる場合でも「書く」ことに意味があり、意義があり、そこに価値が備わります。
絵の方が得意であるのなら絵を「描く」ことで、何かが育まれるのではないでしょうか。
人生の喜びが極彩色として浮かびあがるその日はすぐそこまで来ているのかもしれませんね。
人生のクリエイト。創造作業。その道筋に光を当てられるのは自分自身、だけ。