愛着障害。
このテーマは以前お話したかもしれませんが、きょうの時点でまたお話したいことが出てきました。
愛着障害とは幼少期に両親の愛を十分に感じきれないまま成長してしまい、大人になっても愛との距離感がうまくつかめない心の特徴や気質・傾向のこと。
一般的な言い方で言うと、アダルト・チルドレンに近い心の性質を言います。
アダルト・チルドレンというと、わがままな、子供のまま大人になったような人というような誤解が多いかもしれませんね。
アダルト・チルドレンというのは子供の時に十分に「子供心」を感じきれずに、子供の自分を抑圧して成長した人のこと、あるいはその気質全体を意味する言葉です。
厳密にいうと、愛着障害 = アダルト・チルドレンではありません。ただし両者の間に似ている要素はたくさんあります。
私は二年前に自分がこの愛着障害であるという事実に気づきました。
どこから、何から手を付けていけばよいのかわからず暗中模索状態でしたが、なんとか「自己流」で愛着障害を改善する方法を見つけ、実践を続けました。
なるほどこういうことなんだな、ということを自分で探りながら、体験を積み重ねながら、自分自身を肯定していく、という方法論を取りました。
今年の5月くらいでしたか、愛着障害、「一旦収着」のサインが何度も浮かびあがってきてホッとしていました。
そしてきょう、さらなる事実が浮かびあがってきたのです。
「愛着障害」は個性の一つです。
その傾向が強くなりすぎると日常生活にも支障がでるケースが少なくありません。
しかし、個性なので「ゼロ」にはならないということ。
つまり、たとえば「穏やかな性格」という個性があったとして、その度合いがどこまで進むかの変化はあっても、その人の中から「穏やか気質」がゼロになるということはないということです。
私は愛着障害を知るために二年前、ある書籍を読みました。
確かその中には、その著者の方もセルフで愛着障害を克服された、というような内容のお話が含まれていたように記憶しています。
その時の私の気持ち、「治るんだ」という喜びでした。
ところが「治る」というのは、その状態が「良くないこと」と定義しているのではないかと先ほどそう感じたのです。
その著者の方は「治療家」の方。
だから「治す」というニュアンスが強く出ていたのだな、と。
「好ましくないことにつながるケースもある、一つの個性に過ぎない」としたらどうでしょう ?
「治す」というのはいわば病気をやっつける、というような意味合い。
いえいえ、もともと病気ではなく、確かにその傾向が顕著になりすぎると人間関係にも支障があらわれる。
けれど、愛着障害だからこそ感じられる愛の実感だってある。
愛着障害だからこそみえる、人の心の本質だってある。
それって大事な個性ということなのではないでしょうか。
自己肯定という観点で見るのなら、愛着障害という心の傾向をありのまま受け容れる、そのことの方がより「自分」を愛することにつながるのではないかと、それがきょうの気づきです。
もしかしたら「自己肯定」を積み重ねてきて、心のふり幅が少し小さくなったから気づけたことなのかもしれませんけど。
ということは、私個人の感覚においては「愛着障害」という個性が暴走しないようにうまく折り合いをつけていけばいいのではないかしら、これからは。そう感じたのです。
魂的にみれば、私には愛着障害が必要だった。
愛着障害ならではの人生から学ぶものがあるのだから。
心の専門家が魂レベルの課題をいつも重視してくれるとは限りません。
私のお役目はそこのところ ?
つまり医師ではない立場で「心身魂」のバランスから、その人の個性の探り出し、そしてもしも認知の歪みが大きすぎて生活に支障が出ているようなら、少しだけ調整・調律のためのお手伝いをさせていただく。
心理セラピーは本来、ものすごく「パーソナル」なものです。
一人一人、魂の目的も人生の課題も性格も異なるのですから。
体系化した学問としての「心理学」では補いきれない部分をクライアントさまと共に探り、見いだしていく。
共に人生の喜びを感じられるように。
もちろん「心理学」には素晴らしい考え方が山ほどあります。
その要素も加味しながら、私のオリジナルの視点と融合しながら。
さて、愛着障害の学びのもっとも重要なものは何だと思いますか。
真実の愛を見出すこと。感じること。そして自分をその愛で満たす、ということなのではないでしょうか。
「愛」という言葉があまりにも安売りされているこの時代に。
二年間の自己回復期間がこの大切なことを気づかせてくれました。
人生に無駄なし。
すべて必要、必然。
たとえ、言葉的に「障害」とつくものだとしても。
「障害」とは人生のハードルの意味なのかもしれません。
人生のハードルは排除するものではなく、自分なりに自分のペースで越えていくもの。
人生のゴールにたどり着くための布石として。
私たちの人生になくてはならないものの一つ。
それを越えることによって自分色がまた一つ深まるものなのかもしれないですね。
そしてもしもどうしても「越えられない」という事実があるのなら、手を携えて共にあればいいのではないでしょうか。
大切な自分の一部として。