当エッセイは前「蓮花茶をいただきました」へのお返事のようです。
蓮の花の精霊が嬉しくなってお返事をくれたみたいです。
さて、蓮の精霊からのメッセージ。
あなたの美しさを受け容れるためには、あなたの醜さを徹底的に受け容れなければなりません。
あなたの醜さに光をあて、その本来の美しさを引き出せた時に、あなたは真の美しさを手に入れることができるのです。
あなたが見たくないもの、感じたくないものの中にこそ美しさの種が隠れているのです。
その種を見つけられない限り、あなたの視ている美しさはその断片に過ぎません。
光と闇があってこそ真の光なのです。
光の断片だけをみて「光」ととらえていたのではあなたはいつまでたっても「光」の本質にはたどり着けません。
光は闇と対峙しているものではなく、闇と融け合っているからこそ光なのです。
真の光の存在であるあなたたちにならそれができるはずです。
それを思い出せるはずです。
光のすべてを感じることができるはずです。
光そのものになれるはずです。
ん ? わかりますか、この感覚。ちょっと難しいのですが私なりに解釈してみますね。
蓮の花というのは汚れた土の中からその芽を出します。
見た目に汚い泥地、沼地のようなところにこそ、あの美しい花が開くのです。
蓮の花はそれ自体の自浄作用がとても高く、私も7月に蓮の花をみに行ったときに、葉っぱの真ん中からブクブクと泡のようなものが噴き出していて、なんだろうとその汁に触ってみたらトロッとしていて、それを肌につけたらすべすべになったという経験をさせてもらいました。
つまり「汚い、汚れた泥」の中から生まれた蓮の花だからこそ、あれだけ美しく、しかも自浄作用がとても強い。
綺麗な水、綺麗な池からではあの蓮の花は生まれない、ということではないでしょうか。
私たちの目にはあの美しい花だけが「蓮」として映りますが、本来「蓮」とはその環境そのものを含む、もっと全体的、包括的なものを「蓮」というのではないでしょうか。
あの「蓮」にとって「汚い、汚れた泥沼」は命の一部。
自分自身の一部。
「汚い、汚れた泥沼」とセットになった一つの命、それが私たちの視ている、あの「蓮」なのではないでしょうか。
私たちが意識する「汚い」は善でも悪でもなく、ただその状態だ、ということ。
おそらく「蓮」にとっては「汚い」という修飾語さえつかないのです、感じないのです、ただただ自分の一部として存在しているだけなんです。
それはあなたの命もおんなじなんだよ、が蓮の精霊のメッセージの真意なのでしょう。
自分の汚れたところ、汚いところ、醜いところ、そのすべてに光を当てて受け容れる。
その状態だからこその価値、真意、美しさを認める。
美も醜もすべてが「美の一部」だと気づけてはじめて私たちは真に「美しい」命になれる、ということなのかもしれませんね。
見た目だけの美しさ。
見た目だけの光。
見た目だけの善。
見た目だけの愛。
ではなく、
目に見えない部分の美しさ。
目に見えないところの光。
目に見えない部分での善。
目に見えない部分での愛。
にまず気づきなさい。すると自然に
真の美しさ。
真の光。
真の善。
真の愛。
があなたの中に流れ込んでくるのだから。
私はヒーリング・セッションをする時に「蓮の花の精霊」にサポートしてもらうことが多いのですが、彼らのエネルギーは「無条件の愛」の象徴だとされています。
私たち人間の愛はほぼ「条件付き」です。
何が足らないのでしょう。
何がオーバーしているのでしょう。
もしかしたらそのヒントは当エッセイの中に隠れているかもしれません。
その隠れた部分に光をあてて、その美しさを引き出して。
引き出せるから、あなたなら。
が蓮の精霊のメッセージです。