肝臓。
日本では「レバー」と発音されるのが一般的ですが、イギリスでは「リバー」、つまり「川」と同じ発音をするのが一般的なんだそうです。
古代の理解によると、「肝臓 =リバー」は「命の座」「命あらしめるもの」という意味があったと言いますから、ちょっと今のイメージと違いますね。
私が感じたのは。
まず「川」のイメージ。正確には「川」は「r」で始まるリバーで、肝臓は「l」で始まるリバーなので共通点はないと思うんですけど、何となく浮かんできてしまったのは「川」って「感情」の象徴とする、というとらえ方があるとどこかで目にした記憶があるんです。
そして「命の座」「命あらしめるもの」。
つまり、ここが命の源だよ、というとらえ方もできるのかもしれないな、と。
だとすると私の中では「感情」すなわち「命の源」という解釈につながります。
肝臓はさまざまな感情を「解毒」する働きもあるんですが、特に「怒り」の貯蔵庫にもなってしまう、表裏一体の役目を持つ臓器なんです。
一般的にそれらの感情は「良くないもの」とされます。
特に「怒り」なんてため込んだら大変、と。
そう、怒りをため込むことは大変なんです、身体に良くない。
けれど怒りを感じることは、人間として自然なことなんです。
「怒りをあらわにしてはいけません」
「いつもニコニコしていなさい」
「怒ってばかりいると老化が進みますよ」
とそれこそ様々な専門家が口にされるわけですが、もちろんいつもいつも怒りを感じていていい、という意味ではありません。
でも、そこそこの怒りはアドレナリン効果につながるはずです。
さらに言うのなら、我慢しない方がいいんです。
なぜなら大人になってわいてくる「怒り」の大半は子供の時に自分の中に抑圧した怒りがくすぶり続けていたものだから。
つまり「怒り」を醸成し続けてしまった結果のあらわれなんです。
ただし「怒り」の発散の仕方、解消の仕方、昇華の仕方は少し工夫してもいいかもしれません。
いつもいつも「キレる」状態では周りにいる人ももちろん本人も疲れ切ってしまいますから。
なぜ「良い子」が突然キレて犯罪者になったりするのか。
これは本当に本当に自分の中に「怒り」を抑圧し続けてきてしまったからです。
そうならないように、自分流に工夫を重ねます。
工夫の仕方は少し調べれば山ほど出てきますから、気になる方はご自身で調べられるといいかもしれませんね。
さて、肝臓は「命の座」であるのなら、そこを通過する感情、そこに蓄積する感情、すべて「命」であることの証明なんだよ、ということなのかな、と私は感じました。
感情は流れる川のように自然に流していった方がいい。
とすれば、自分の感情に優劣をつけたり、善悪のジャッジをしたりしないで、出できたもの、流れてきたものはそのまま自然にその流れに任せなさい、という意味があるのかもしれませんよね。
そのコツが身についてしまうと、肝臓も随分と楽になるのではないでしょうか。
私は生まれつき肝臓の働きが弱くて、精神的ストレスにも弱かった。ものすごく疲れやすかった。
治療らしい治療はせず、今に至っていますが、それでも肝臓が医学的に「悪い」状態になったことはありません。
さらに最近は「怒ってはいけない。怒りは抑えて」と思う必要がなくなったためなのか、時々は爆発しても罪悪感さえ感じることはなくなりました。
だって頭にくるんだから怒らないと。
別に怒声を張り上げる必要はないけれど。
しっかり怒れる。
その反動でしっかり受け止められる。
あるいはしっかり優しくできる。
などのメリットが生まれます。
「怒ることができる」って生きていることの証拠です。
死んでしまったら怒ることもできなくなるんです、私たち。
ある意味命の営み。
すべて平等な価値、すべて同等の価値、どんな感情であっても。
たとえ殺意でも、その場で感じるだけならOK ! との話を半年くらい前に目にしてホッとしました。
そんなことしたら、良くないエネルギーにとりつかれる ?
ないない、そんなことまったくないです。
それ、風説なんじゃないかしら、誰かがまことしやかに創り上げてそのままたくさんの人の間に定着しちゃった類の。
私はそう感じていますので、ネガティブ勢力に引っ張られるという体感はほぼなくなりました。
もちろん感情のアップダウンは今でもあって、もしかしたらそれが引っ張られていることのあらわれかもしれないけれど、感じつくせばすぐに元に戻ります。
人の心にも自然治癒力という聖なる力が備わっていますから。
あまりむずかしく考えないで自然に、流れのままに。
肝臓にはそんな意味合いもあるのかもしれませんね。
命に含まれるすべてを丸ごと包み込む、受け止める。