きのうの真夜中、また少し微熱と発汗です。
今朝起きて瞑想をすると。
なんと、今までに入ったことのない「おへそ」にものすごい勢いでエネルギーが入りました。
その下の丹田、さらに第一チャクラにも。
チャクラのお話は何回かしていますので興味のある方はご自分で調べていただくなどすると、よりお話が入りやすくなるかもしれません。
おへそに入るなんて。
しかもかなり気持ちいい。
「ああ、真ん中に戻ったんだ」、瞬間的にそう感じました。
おへそにどんな意味があるのか調べてみました。
おへそは通常、お母さんの肝臓とつながっていた、と考えられるんだとか。へその緒、ってヤツですね、正確には。母親の胎内にいるときにへその緒で母親の肝臓とつながっていた、という考え方があるそうです。
肝臓の役割として、精神的ストレスを強く感じ取る、というものがあります。
ストレスが強くなると肝臓にダメージが与えられたり、逆に肝臓の弱い人は精神的ストレスに弱い、というのが一般的な説です。
私はこのタイプです。
生まれつき肝臓が弱くて。
日常生活に支障が出るほどではなかったけれど、結構疲れやすかった。
つまり精神的ストレスに弱かった。
同時にそれなりに瞬間湯沸かし器。
ちょっとしたことで「ムカッ」と来やすい性格でした。
ここ5、6年くらいは肝臓が弱いということを意識することもなく、ごく普通に生活できています。
瞬間湯沸かし器は残っていますけど、若い頃よりは落ち着いたかな。
それでも時々爆発しますけど 笑。
見た目の印象もあるのか、人からは「おっとりさん」とみられることが多いけれど、多分、怒りを我慢している自分が強いからでもあるはずです。
子供の時から曲がったことが大嫌いで、社会人になってからはよく上司に文句を言って、時には「クビ」にされたこともあるくらいですから。
徐々に「落ち着いて、落ち着いて」と自分で自分を手名付ける癖がついていたんでしょうね、きっと。
肝臓がキャッチするのは怒りだけではありません。憎悪とか罪悪感とか嫉妬心とか猜疑心とか、一般的に「ネガティブ」と言われる感情はかなり影響を及ぼしやすい臓器のはずです。
おへそが母親の肝臓とつながっていたということは。
つまり「赤ちゃん」であった私たちの中には生まれる前から母親のそれらの感情がインプットされていたということ。
胎内記憶という言葉があると思うんですけど、私たちは母親の感情は良いものでも良くないものでも感じ取っているんです、すでに胎児の時から。
私の場合、生まれつき肝臓が強くなかったということは、もしかしたら母親がものすごい怒りを抑圧して生きていたという可能性はありますね、十分。
母は他界していますので、確認はできませんけど。
怒りの抑圧傾向はいわば母からの遺伝。
もしかしたらおばあちゃんもひぃおぱあちゃんもその傾向が強かったのかもしれません。
その記憶が脈々と受け継がれてきた可能性、大。
そのおへそにはじめてものすごいエネルギーが入った。
ということは、私の「おへそ」に残っていた母の怒りをはじめとした様々な精神的ストレスの記憶が綺麗に抜けていったというメッセージなのではないでしょうか。
先週は死にそうなくらい ! に発熱と発汗を繰り返していたわけで。
第一チャクラや丹田にも強いエネルギーが入ったということは、生命力のベースが今、はじめて整ったという意味なのかもしれません。
精神世界に足を踏み入れた人は、必ず、と言っていいほど「上位チャクラ」が優位になると言われています。
フワフワするんです、夢見心地。
その分、現実感が薄れる。
私も瞑想三昧の日もあったりして、その傾向が強くなっていた時もあるのだと自覚しています。
三年くらい前でしょうか、「グラウンディングだ」と感じることが多くなって、とにかく地に足つけて現実を生きようという気持ちが強くなっていました。
それでも瞑想三昧はやまず。
決定的に「こんなことをしていたら大変なことになる」と感じたのは、今年の4月のこと。
以前親しかった友人が突然死の形で旅立った、そのことが自分を振り返る決定的出来事になりました。
それまでも徹底的に自分に向き合う、という自己統合プロセスを一年半続けていました。
彼女の訃報を聞いた時、「彼女はフワフワした世界をまるでリアルな世界であるかのように追い続けていた。奉仕とか救済とか。でも一番助けなくてはいけなかったのは自分自身だと私に教えてくれたんだ」、心の底からそう感じたのです。
その友人とは、かなり親しくお付き合いをさせてもらった時期がありました。
だからこそ、私にとって彼女の旅立ちはショックでした。
もちろん今は、それが彼女の人生だった、運命だったと良いことも一見悪いことも含めてすべて彼女自身だ、ということを受け容れることができています。すべてが彼女の中におさまっていた真実。すべてが彼女の人生のパーツです。
彼女が旅立つ前にそれを受け容れられていたら。
気づいていたら。
けれどその時には気づけなかった。
それが私の運命でもあるわけです。
彼女の旅立ちを機に、瞑想の習慣は卒業しようと心に決めました。
私にとって必要なのは、リアルに、現実的に自分自身の運命を生きることだと思えたからです。
そのため、日常生活の中に「瞑想時間」を作る、という考え方は卒業しました。
逆に「瞑想状況」の中に日常を取り入れる、という方向にシフトしました。
が、言葉で言うほどそれは簡単ではなく、ある瞬間、うまくいってるかも、と感じる程度。
そこで意識の変化がまた起こり、「瞑想は適度にふさわしい状況でふさわしい時に、自分を感じる、という意味ですればいいんじゃない ? 」、と。
その、自分にあった「ベスト」を探りながらの毎日の中で、やっと「下位チャクラ優位」、そして何より「おへそ」にエネルギーの火が点火された感覚になったのが、きょうの朝の瞑想時だったということです。
私たちは大地に根付けば、自分の運命を成就できるようになっている、という考え方があるんだとか。
やっと、スタート地点に立てたのでしょうか。
スピリチュアルに傾注している方を傷つけたくはないし、もちろん私もその一人だったし。以下はマイノリティー経験者の言葉だとさらっと読んでいただくと良いかもしれません。
もしあなたが「グラウンディング」の言葉にピンと来るようなら、すぐに何かにトライなさるといいのではないでしょうか。
簡単です。大地を感じながらお散歩するだけでも自分の居場所を本来のところに戻せます。
少し時間はかかったとしても、確実に。
私の場合、肉体にフォーカスする「エクササイズ」を手を抜きながらもそこそこ頑張ってやり続けていること、そして愛犬・華実とのお散歩、さらに絶対に目の前の現実から目を背けないということを自分に徹底するように意識することで、「地に足」ついた生活へとカムバックさせてもらうことができました。
と言っても根がズボラなので、人から見たら「なんかね」程度だと思います。
けれど私に「ふさわしい」が一番だと思っているので、今の私にはこんな感じが「ちょうど良い」。
おへそから母の怒りの抑圧という記憶は薄れてくれたかもしれないけれど、この後、私が怒りを感じないなんてことは絶対にありえません。
いいんです、怒りも大切な私の一部だから、ちゃんと向き合って生きていけば。
「怒りはいけない」なんて教えは個人的には「ウソッパチ」だと感じているので。
感情に優劣はありません、みんな同等、フラットです。
愛や感謝は良くて、怒りや不満はいけないなんてことはないのです、少なくとも私の世界観では。
すべてあっての私なんですから。
人生のシナリオはみんなオリジナル。
みんなユニーク。
みんな唯一無二。