自己犠牲。
私の課題の一つ。
私は小さい頃から「自分さえ我慢すれば」という想いを強く抱いて生きてきました。
元々自己主張の強い性格なのに、です。
当然自分を主張することができなくなってきて、「ま、いいか」の繰り返し。
すると突然爆発します、「いい加減にして」。
今調べてみたら自己犠牲は愛だと、たいていの宗教での教えだそうです。
ん~、ここが引っ掛かる、個人的に。
ハートがチクチクする。
愛かな ?
愛ってもっと包括的なものではないのかな ?
もし、自己犠牲が絶対的善であるのなら、私たちは常に自分ではないモノを生きていなければならなくなります。
せっかくこの世に生まれてきたのに。
自分の個性・特性・長所・欠点、すべて自分のものなのに、それをないものとするのなら、はじめから何者かのクローンでいいのでは。
なぜあえて肉体を携えてこの世に生を授かったのでしょう。
肉体があるということは、絶対的愛にもなり得なくて、必ずエゴが存在しているということのはずなのに。
私の今の頭ではこのくらいの理解が精いっぱい。
今の私の結論です。この後変わる可能性もあるかもしれません。
私にとっては「自己犠牲」=「愛」ではありません。
時に「愛」になることもあるかもしれないけれど、たいていの場合は「あるがままの自分の否定」につながります。
本当はこう生きたいのに、それでは人に迷惑がかかるかもしれないから我慢する、というタイプの自己犠牲。
なぜ本当は、の部分を受け容れないのでしょう。
もしそれが本当に人に迷惑をかけるものだとして、それは迷惑をかける人も迷惑をかけられる人も人生の学びとして設定してきただけのことなのではないでしょうか。
みんなが「自分」を排除して生きなければならないとしたら、すべての人が宗教人でなければならないということになるのではないでしょうか。
そもそも宗教人でもない私たちが宗教人に近い感覚で生きなければいけないことの意味が今の私には理解できないのです。
宗教と共に生きる、という選択をしているのならともかく。
生まれてきた時から何となくの宗教観の中で育てられ、もちろん、遺伝子の中にも組み込まれ、さらに集合意識、集合想念などの影響を受けて、宗教人らしくがデフォルトのようにされているけれど、「私には宗教はピンときません」という意見があってもいいはず。
宗教によって守られてきたことはたくさんあるでしょう。
けれど人として生きるための最善の道は他にもあっていい気がするから。
そんな選択肢を「大いなる存在」は認めてくれないのでしょうか。
いろいろと迷い、探って最終的にやっぱり「自己犠牲は愛」というところにたどり着くためのプロセスは何種類もあっていいのではないかと。
私はまだ「愛」の本質が腑に落ちていないのかもしれません。
「自己犠牲」を探るより多分そちらを探りたい魂なんだと思います、私の場合。
きのういったんおさまった熱が出て、こうなると私の場合、くすぶります。
子供の時に扁桃腺を取ってしまったので熱がなかなか出にくい体質になってしまっているのです。
扁桃腺というのは怒りの感情と共鳴しやすい場所で、きちんと熱が出る、ということは怒りをきちんと昇華できるということにもつながります。
私の場合、逆です、なかなか熱が出ない、同時になかなか怒りが昇華できない。だからくすぶる。
でも私の中の「怒り」は「外に出たいよ、ちゃんと認めてよ」と今、自己主張を頑張ってくれています。
「自己犠牲」モードになった時の過去の自分が一生懸命、「自己犠牲はヤダ。ちゃんと自分の気持ちを感じたい、伝えたい」と頑張ってくれているのです。
同時にゲップの嵐です。
食べ過ぎではありません 笑、感情が外に出ようと頑張ってゲップで表現してくれているのです。
その人によって「自己犠牲」のとらえ方も異なるものなのかもしれません。
私はこの熱とゲップに込められた哀しかった自分、悔しかった自分、淋しかった自分を今、トコトン感じつくすことによって自分の中にため込んだ「自己犠牲」の感情を自分自身のものとして統合する時が訪れた、という状態を味わおうと思います。
ふぅ~。
おそらく、なんですけど、集合意識としての「自己犠牲」も引き受けてしまっている感じ。
それくらい自己犠牲って、良くも悪くもエネルギーが強いのかもしれませんよね。
「自己犠牲」の素晴らしき解釈は解釈として、今は自分を認め受け容れることの方が私には大切なのだと痛感しています。
自分を自分自身への愛で満たす。
すべてのことはそこから始まるはずだから。少なくとも私の人生においては。
「自己犠牲」が美しく麗しく崇高だと感じる方はもちろんそれでいいのです。
お互い人生の課題が違うだけですから。
当然視方も感じ方も変わってきますよね。
人それぞれ。
唯一無二。