先ほど瞑想をしていたら、今までに感じたことのない「背骨」の真ん中あたりにエネルギーが入るのを感じました。
調べてみたら。
「あなたは十分に支えられています。安全に支えられていると感じているために、他者の援助や物質的サポート、財産などを遠慮なく受け取ってください。そうすることであなたはもっとたくさんの喜びを感じることができるでしょう。やがてそれらすべてがなくても自分は安全だと感じられるようになるでしょう」
のメッセージとのこと。
※ ↑ 『自分を愛して』ハート出版刊を参考にして抜粋ではなく私の解釈を加え短文化しました
私は物質とお金に逆執着のようなものがあって、どうしても「禁欲」「清貧」モードが勝ってしまうような心の癖が強くついています。
先日浮かんできたのは「拝金主義」という言葉です。
その言葉によってお金を毛嫌いしすぎる心の傾向は実はお金に対する強いコンプレックスなのだと気づきました。
お金に対して強すぎる憧れ、要望、欲望などが続くことが「拝金主義」。
お金に対して強い嫌悪感、その想いから強い「禁欲主義」に陥るのも、同じように「拝金主義」なのだと。
お金を必要以上に「神格化」したがゆえのエネルギーが表に出た時が「拝金主義」、裏に出た時が「禁欲主義」。
その大元はお金に対するコンプレックス。
コンプレックスはいけないものではありませんが、それが強すぎるとお金との対等な関係を遠ざけてしまうことになります。
そんな一連の流れを自分の中で客観的に徹底的に感じつくした結果がきょうの背中への優しいエネルギーの入り方となってあらわれました。
痛いのではなく、優しく、誰かがさすってくれているかのようでした。
私は「ピラティス」という体幹を整えるエクササイズ・レッスンを受け始めて二か月くらいになります。文字通り体幹を整える、ということは自分の真ん中、つまり背骨周辺が整えられて、本来の自分の力を発揮しやすくなることなんだろうと自己解釈をしていました。
だからなのか、ピラティス・レッスンが終わった後は本当に気持ちいい。
最近の私の心身には太極拳やヨガより合っているようで、レッスンの日が楽しみでなりません。
ということは、私の欲求にこたえてくれているのですよね、ピラティスが。
そしてその欲求は、自分の身体を支える背骨をしっかりと整えることだったのです。さらにそれは精神面での「支え、サポートの体感」を感じ取るためだったのでしょう。
私たちの真ん中には善悪二元論という価値観が根付いています。
その中には、「物質的なものは精神的なものに劣る」という価値観も含まれています。
これが宗教的教義の「清貧」「禁欲主義」「奉仕」などと結びついて、ともすれば私たちの現実的生活を苦しめることにつながることも出てきます。
その人その人によって価値観は異なります。人生の課題もそれぞれです。
私の場合は「今」、それらの善悪二元論に基づいた「清貧」「禁欲」への執着から解き放たれるという「時」がやってきてくれました。
お金と適切な関係。
お金も精神性もフラットな関係です。その価値に優劣はありません。
私たちの命は「心身魂」のバランスによって成り立つもの。
そのすべてが同等なのではないでしょうか。
少なくとも私はそう感じています。
当エッセイを書く前に「7777」「777」の数字が続きました。