内省、内観、リフレクション。
ほぼ同じ意味で使われる言葉のようです。
「よう」としているのは、この言葉を知ったのは「いま」だから。
もっとも内観は時々、耳にしていました。
あまり興味がなかったので深追いしませんでしたが。
内省、内観、共に「自分の内側」に目を向ける、という意味だそうです。
自分の意識、心に目を向ける、ということなのでしょうね。
リフレクションは、今までの自分を振り返る、というニュアンスが強いんだとか。
鏡に映った自分やモノゴトの像、という意味もあるそうですから、心理学でいう「鏡の法則」にも相通じるものがあるのかもしれません。
なるほど、と納得、びっくりしてしまったのは、私はここ数年間、まさにこの「内省」「内観」「リフレクション」をセルフで行ってきたのだな、ということに気づいたからです。
「鏡の法則」に基づいた心の見直しはここ4年程、「内省」「内観」「リフレクション」についてはここ2年程、それはそれはもういい加減にしてと言いたくなるくらい徹底して行わされてきました。
誰に、というと、私の潜在意識に、です。
にわか勉強なので十分な理解はできていません、そのつもりでのお話です。
「内観」については心理学の柱ともいうべき治療法で、そもそもは万人向けの心の修養法なんだとか。それを医療に応用したものが「内観療法」と呼ばれるものだそうです。
江戸時代の禅僧が禅病になった心身を「内観法」に近い感覚のもので治した、という逸話があるそうです。その中に丹田を意識した呼吸法のような自律訓練法も含まれていたらしいのですが、私のなぁんちゃって瞑想はまさにこのスタイルですから、私は知らないうちに自立訓練法、および内観法を実践していたことになります。
先日、心理学の「ユング理論」による「対立し合うものの結合・和合」をセルフ・セラピーの柱にさせられていた、というお話をしました。
私の「内観法」の柱はオーソドックスな方法ではなく、変形ともいうべきこの「対立し合うものの結合・和合」によって成されていたということのようです。
先日もお話した通り、私は心理学を専門的に学んでいません。その、メソッドが「勝手」に私の中で動きだし、私自身をリードしていたのですから、驚かないわけにはいきません。
私は知識や理論からではなく、すべてが「経験主義」という魂のようです。
なんでも実践がスタート。その実践体験を書物にて人に伝えたり、実際にカウンセリングなどを通じてエネルギーなどを伝授させてもらったり、というスタイルが私の中に組み込まれているのかもしれません。
きょう、これらのキーワードが浮かびあがってきた、ということは、「内省」「内観」「リフレクション」の第一段階は終了し、これから新たなステップを踏み出すということなのでしょうか。
私の人生は完全に何者かに牛耳られています。その何者かは潜在意識から私にアプローチし続けているようです。
と言っても昨年の暮れあたりに、私は心理学と健康論を融合・融和し、新たなライフスタイルを創出する運命にある、と感じ、数人の知人に話したことがあります。
日本ではまだまだ心理学はマイナーな学問です。また柱となる心理学者のほとんどが欧米の男性であることから、女性ならではの東洋思想の組み込みなどが私に求められているのだろうとも感じていました。
健康論に関しては、東洋医学をベースにして、日本流ホリスティック・ケアの理論は一通りは理解させてもらっています。日本流としたのは、私はまだそこにプラスできる余裕がある、という意識をもっているからです。身体のケアという意味ではヨガ、太極拳、ピラティス、ストレッチを実践し続けています。
さらにそこに心理学のような修養法が一体化すれば、新たなホリスティック・ケアの考え方が構築できるはずです。ホリスティック・ケアというとどうしても病気ケアのイメージが強いので「修養法」がメインになるのかもしれません。
私は医学や心理学を専門的に学んでいないセラピストであり、カウンセラーであり、作家であるため、学問や治療法ではない、「比較的」万人向けに近いだろうオリジナル・メソッドが組み立てられるという「独自性」があります。何よりもひとりの生活人としての知恵を形作ることができるのです。
もちろん、資格優位の考え方の方にとっては「うさん臭い」「うそ臭い」存在に感じることは理解しています。
それでもここまでこうして経験を積み重ねさせてもらってきたのですから、ゴールを目指さないと。
私の「オリジナル・メソッド」を必要としない人のため、ではなく必要とされる方のために。
応援してください。サポートしてください。私のオリジナル・メソッドの浸透のために。
このメソッドを実践していただくことによって、犬猫ちゃんの病気はおのずと改善することでしょう。
お子さんの心の問題は大きく改善することでしょう。
何よりあなた自身の心身魂が真の豊かさを具現化してくれることでしょう。
これこそが心理学の真髄かもしれません、すべては自分。そこから世界は拡がっていく、という考え方です。
一つの小さな点が美しい水紋を描き出し続けるように。
ここにたどり着くための、私の何年間もの人生。
すべての経験が私の命の糧になることを確信しました。
すべての方に言えることですね。
絶対にあきらめない。それまでの大切な時を輝かせるために。
ちなみに自己修養法という、私には馴染みのなかった言葉を調べてみました。
知識を高め、品性を磨き、自己の人格形成につとめることなんだとか。
この中で一番大切なのは「自己の人格形成」ではないでしょうか。
それを心と身体の両方から磨いていく、心身修養法が私の目指すところなのかもしれません。
私自身の心身修養法の一環として、他の方と共に手を取りながら、というスタンスがクッキリと浮かびあがっています。
私は私自身の経験から、宗教や道徳教育、スピリチュアル、さらに医療では自己の人格形成はむずかしいと感じています。もちろんそれらでうまくいっている方はいいのです。私には無理だったというだけ。ですからそれらの要素を除外するのではなく、それらのいいとこどりをして融合・融和を目指します。
私の得意分野です。異なる価値観の融合・融和による新たな文化の創造・創出。ある意味、錬金術なのかもしれませんね。
簡単に言うと革新的。逆の言い方をするとへそ曲がり。サラっと言うと根っからのクリエイター気質。
もちろん私は保守的なところもあり、優等生のところもあり、しっかり修める職人気質のところもある。
あれもあり、これもあり、すべてあり、が私です。
こうやって文字にすると誇大妄想気味 ? 笑。
ま、やるっきゃないな、私を応援・サポートしてくださるすべての方と。
「修養」の「修」の字の語源を調べてみました。この中には「水」の意味も含まれていて、綺麗に禊をし、美しく整える、というような意味になるんだそうです。
私たちの本来の「人格」はすべて美しいものという意味なのかもしれませんね。「水」は母なる地球のことでしょうか。
大丈夫。
私たちは十分に支えられて生きています。
必要なものはすべてもっています。
私たちは安全です。一人ではありません。