魔女狩りと聞いてあなたは何を思い浮かべますか。
私のカウンセリングを受けてくださる方の多くが「魔女狩り」の記憶が残っているとおっしゃいます。
私自身は直接的に「あ、これだ」という記憶は感じません。
が多数の方の意識と私の意識とに共通項はあるはずですから、何らかの魔女狩りの記憶を有しているのは確かなのかもしれません。
集合意識の部分かもしれませんしね。
直接的に、としましたが私は広場恐怖症であり、同時にパニック障害の経験を持ち、さらに閉所恐怖症の傾向もありますから、どこかに幽閉されたとか、あるいは公開処刑を受けたとか、魔女狩りそのものではなくても何となく間接的に、それらしき体験をしている魂なのかもしれないな、という想いはあります。
さて、魔女狩りについて少し調べてみました。wikipediaの情報です。
その中で興味深かったのは、「ギリシャ語のパルコマンという言葉は医薬と毒薬という両義性を持つ言葉で、そこから妖術に相当するパルマケイアという言葉が派生した」、という内容。
ちなみに妖術とはいわゆる魔術の、良くない目的のもの、というような意味合いの言葉なんだとか。
その語源というか、大元は「医薬と毒薬」、どちらにもとれる言葉、という点がなかなか面白いな、と感じました。
もしかして、言葉って本来はこのように「両義性」をもつものが多かったのでは、と。
根拠はないです、なんとなくそう感じただけです。
つまり、医薬であっても使いようによっては毒薬になる場合があるように、その使い手の「思い」によって、薬というものがそれこそ「薬にも毒にもなる」という、その真理がこの「パルコマン」という言葉に隠されているのではないでしょうか。
それと同じように「魔女」には良い側面も、同時に良くないといわれる側面もあって、それはそれを感じ取る人の「眼鏡」の色によって決まる。つまり魔女自体、絶対的善でも絶対的悪でもなく、けれど相対的「悪」が異様にクローズアップされた時に「魔女狩り」という現象が生まれてしまうのではないかと感じたのです。
そもそも魔女狩りは集団ヒステリーのスケープゴートではないかとする説もあるそうです。そう、「魔女」の視点ではなく、周りの人がどういう意識でいるか、その意識の投影が結果的にその現象を生み出している。
さらに興味深かったのは、魔女狩りとは、女性医療師の弾圧目的では、という説があったということ。
その主旨としてはそもそも民間医療の部分は医学を学ばなかった女性医療師によってなされていたもの。その女性医療師に対して世俗権力や宗教家の指導者たる男性たちが弾圧目的で魔女狩りを行ったというのです。もっともこの説は今はほとんど支持する研究者はいないらしいんですけれど。
もうひとつは、すべての女性迫害、女性に対する敵視が魔女狩りの言動力とする説。
なぜこの二つをピックアップしたかというと、なんとなくハートに響いたからなんでしょうね、私自身の想いとして。
これはどちらかというと「女性性」よりの視点での感じ方。この感じ方を「男性性」よりの視点でみていくと、より客観的なとらえ方ができるのではないでしょうか。
私は「魔女狩り」の犠牲者だったかもしれません、その一方でもしかしたら「加害者」の立場であった可能性もあるわけです。
そしてその「被害者」「加害者」の線引きはどこなのか、もしかしたら「加害者」と言われる人たちにしてみればさらに正当な理由がある場合もあるのかもしれません。
ここに「医薬と毒薬」の意味が集約されているような気がしています。
「あの人は善人だ」
けれど視る人が視れば、「あの人は悪人だ」というケースも大いにありうるわけです。
善悪だけで物事を判断し、自分こそ善だと主張していたら、どこかで何かが欠落し始めるのではないでしょうか。
私たちにはそもそものところで「善悪二元論」の意識が浸透していますから、すべては「表裏一体」、言葉をかえれば「諸刃の刃」の場合もある、ということを踏まえながら、極端な「二極」に陥らないように、ほどほど感を身につけて、というような、そんな意味合いのメッセージでもあるのかしら、と感じました。
誰でも加害者になり得る、無意識のうちに。被害者意識だけを膨らましていてはことは解決しないな、と自分へのさらなるメッセージでもあるのかもしれません。
○○狩り。
その対象に怒りをぶつけているけれど、本当は自分自身を攻撃している。
自分を大切にしているか、ちゃんと聴いてみよう、視てみよう、向き合ってみよう、と思う良いキッカケになりました。
※ 追記
◎ 私は女性だから男性にはかなわない
◎ 私は医学を学んだ職業医師にかなわない
という二つの制限があることに気づきました。
「私ならでは」「あなたならでは」の何かを絞りだし、それを具現化していけばいいのですよね。