きのうのこと。
以前カウンセリングを受けてくださった方のお母さまの愛犬ちゃんが亡くなったとのお知らせをいただきました。
17歳とのこと。
一般的にみて、大往生での旅立ちだったと言ってもいいかもしれません。
ただし、私はすべての旅立ちを「大往生」だととらえています。
お役目が終わってこの世を去る。
そのお役目はその命がこの世に生まれてくる前に大いなる存在と約束してきたお役目です。
その命を「今生」から人間の視点でながめてのものではありません。
けれど私たちはそれを受け容れるのにとても時間がかかり、結局人間の視点での長生きを「大往生」の基準にしてしまっているような気がします。
長く生きた方が素晴らしいとの認知の歪みをそこに感じます、私自身においても。
本当は長さではないのに。
他者との比較ではないのに。
いずれにしてもこの暑い夏。
シニアや病気が重篤な犬猫ちゃんにとってはつらいものがあるかもしれません。
すべて「さだめ」ですよね、きっと。
その方とメールのやり取りをしていて、ふと「オール・フラット」という言葉が浮かんできたのです。
例えば私たちは「生」と「死」をわけて考えます。
「病気」と「健康」を分けて考えます。
あえて「病気だった」「健康だった」とその状態を二分して考えます。
けれどおそらく「生」の中には死と再生が組み込まれていて、命そのものはいつも「生」なのではないかと。
つまりあえて境界線を引く必要はなくなったのではないかと感じたのです。
私はヨガのレッスンを受けています。
太極拳のレッスンも受けています。
最近、ピラティスのレッスンも受け始めました。
そして感じたのは、ヨガだから、太極拳だから、ピラティスだから、とあえて区別する必要などなく、その中で一番自分に合う、自分にとって心地よいレッスンをその時々で選べばいいのではないかと。
それが結果的にヨガだったとしても太極拳だったとしてもピラティスだったとしても。
その大元の気持ちはフラット。
すべてあるその中からその時の自分にとってのベストを選ぶのが一番快適なのではないかと感じたのです。
「あの世」と「この世」をあえて線引きしたり、肉体と魂をあえて線引きしたり、カミと人間を線引きしたり。
すべてがフラットである、ということは言葉をかえればすべてがつながりそれが「〇」になるのではないかと。
カミと人間を二分している限り、それは二元性の世界であって、一元制ではないのではないでしょうか。
逆に言うと、オール・フラットの中の全要素をすべて机の上に並べて、その中からその時々で自分にとって一番必要なもの、自分にしっくりくるものを選べば、たどり着くところは「〇」の世界。
「〇」の中に「〇」があって、その「〇」の中に大元の「〇」も含まれる。
確かこれが本来のワンネスの意味のはず。
ということは本来の「ホリスティック」はこれを意味していたのに、いつの間にか、「西洋医学は別」とか「化学製剤は別」とかそんな意識が膨らみはじめて、本来の「すべてを包括する」という意味の「ホリスティック」とはかけ離れてしまっているのが、今のこの世の中の現状ではないでしょうか。
二極、二元。それは分離の世界。対立の世界。
私たちは統合して一つの大いなる存在となって、またそうなれるようにお互いに協調し合うように創られているはずなのに。
すべての人が異なる他者との境界線を意識しなくなったら「オール・フラット」の世界が実現します。
その片鱗の意識が私の中に届けられたみたいなのです、一匹のワンちゃんの「死」を通じて。
そのワンちゃんは亡くなりました。
けれど亡くなってもなお、私たちに何かを教え続けてくれているのかもしれません。
まさに「死んでも命はなくならない。形の変わった生の営みを続けている」ということになるような気がします。
実は私は以前ほど動物君の旅立ちのお知らせがつらいものではなくなり始めています。
冷たいようですが、「お疲れ様、今までありがとう」という気持ちが自然に浮かんでくるし、同時に、「またこれからもよろしくね」という想いが自然に沸き起こってきてくれるからです。
人間の旅立ちはそうはいきません。おそらくその亡くなった方の情念、想念のようなものを感じ取ってしまうためだと思います。
動物君の場合、それがまったくないというか、私には一度も「つらいよ、哀しいよ、死にたくないよ、独りぼっちになるのは淋しくて仕方ないんだ」というような意識が伝わってきたことがありません。
もちろん彼らが何かを恨むという感情も感じたことはありません。どんなに人間的な視点で不幸と思える一生をすごしたとしてもです。
それよりもいつも温かいハートのエネルギーだけが伝わってきて。
こんなにも温かい存在と共にいられる私たち人間はなんて幸せなんだろうと。
けれどおそらく彼らが温かい分、病気や旅立ちという状況がなんとも言えないほど哀しい状況に感じられるのかもしれませんね。
それが人間ならではの感情の機微なのでしょうか。
けれど「哀しい」という感情も「幸せ、嬉しい」という感情も本来は価値が同じ。その感情に優劣はないのです。
オール・フラット。
天国在住・愛猫・海・かいとこちら在住愛犬・華実、愛猫・海・うみの間の境界線もなくなっているような気がします。
同時に彼らと私の境界線も。
この感覚、いつもいつも感じていられれば嬉しいのですがそうはいかないのが私たち人間のさだめなのかもしれません。
おそらく、なんですが、私はレッテルや仮面を外した世界を少しだけ感じさせてもらっているような気がしています。
亡くなったワンちゃんの固有名詞、仮面が外れたというサインなのかもしれませんね。
亡くなってしまえば、この世における、その個体特有のお役目は必要なくなるものですから。
ということは「オール・フラット」は私だけに対してのメッセージではないということなのではないでしょうか。