「統合・融合・融和」
数年前、ベトナム旅行をしたときに、天国在住・愛猫・海・かいが伝えてきたメッセージです。
海・かいは旅立ちの直後「調和・統合・無限大」というメッセージを伝えてきていました。
いわばその第二弾のようなものでしょうか。
まずは自分自身と統合し、調和の状態になり、それから何か別のものとの統合へと進み、そして融け合い、混じりこんでさらなる調和の状態へと突き進め、と。
ここには再生の意味が含まれていますね。
まずは自分がうまれ変われと。正確には本来の自分を想い出せ、と。
さらに他のなにものかとジョイントしてさらなる自分へとパワーアップしろ、と。
それこそ大いなる一つに戻ることに他ならないのだから。
おそらくこんな流れがあるのではないでしょうか。
私たちは分離がデフォルトの状態でこの世に生を授かっています。
ですので第一段階はその分離意識を一つ一つ自分の中に統合していくことで自分自身の命を蘇らせることにつながります。
そして第二段階。その統合した自分をさらに確固たる「価値」に変えていくための、他の命との協調という手法が待ち受けています。すると「個」の力よりさらに大きな「力」を生み出すことができるようになります。
自分自身の調律が第一段階。
その後のハーモニー、旋律が第二段階です。
当然、第二段階はどんな「オケ」を選ぶか、で自分の宝をどう活かせるかが変わってきます。
ミュージシャンであれば、バンドだったり、オーケストラだったり、その選択はさまざまです。
さまざまなミュージジャンが他のアーテイストとコラボをするのは、第一段階はクリアしたぞという自信のあらわれなのかもしれないですね。
さて、私のテーマは今どうやら「融和」のようです。
お互いに融けこみ、調和の状態を創り出す。
お互いに、ということは私のパートナーは私自身が選ぶ、ということです。
自分にとってのベスト・パートナーは誰なのか、どこのジャンルなのか、テリトリーなのか。
そのためにはまず自分自身を理解していなければなりません。
自分は本当はタイプAなのに、夢の中の自分はタイプBを望んでいたら、そもそもが統合していないということになります。
はじめから分離、あるいはかい離状態です。
どうやら私たちは最初この状態でセッティングされているようです。無意識のうちに。
「何かがおかしい」と気づいてはじめて自己統合が進みます。
「何かがおかしい」と気づくことが統合・融合・融和へのスタートになります。
確かベトナムに行ったのは4、5年前。
それまで大切に思ってきた一人の友人との関係を卒業した頃のことでした。
その友人は今年の4月に突然死の形で旅立っていきました。
彼女の人生のストーリーは良くも悪くもそうだったということ。
正確には良いも悪いもなくて、ただそうだった、ということです。
彼女のこの世界での人生はそこで終わり、私の人生はさらに続く。
是非ではなく優劣ではなく、お互いの人生の課題はある意味、正反対だったということでしょう。
彼女とのご縁の形が変わった時、私は新たな道筋へと向かう次なる課題をもらっていたのですね。
次は「統合・融合・融和」だと。
その統合の部分に時間がかかりすぎていたのがなんとも私らしくて笑ってしまったり、同時に涙が出そうになるような気もするけれど、やっと今、「融和」の文字がクッキリと浮かびあがってきた。
これから私は私の魅力を最大限に活かせる「オケ」との融和作業を楽しむ段階に入ったということです。
パートナー探しをするよりも、まずは自分に向き合い、自分を理解することが大切だったということ。
自分を理解し、あるがままの自分を受け容れる。
自分を愛する段階。
ここをクリアしなければ、パートナーは見つからない。
婚活と似ていますね。
パートナー探しより、まず自己愛。
4月に旅立った友人は自分を愛することが十分にできていなかった。
いつでも人が先。
けれどそれは逆に言うと自分自身に向き合っていなかったということです。
旅立ちのお知らせを知人に聞いた瞬間、そのことがわかりました。
そしてそれこそが彼女からのデス・メッセージなのだろうと感じました。
彼女は自分の生き方から、何よりも自分を愛することの大切さを学んでほしいと私に伝えてきてくれたのでしょう。
そのことを感じ、私の自己統合は終盤、大きなツメの段階に入ったのだ、ということも同時に感じていました。
7月、私にしてはかなりの体調不良が続いたのはそのためでした。
8月に入って、今までの世界観とは異なるものが私の前にあらわれはじめたことを実感しています。
自分自身の再構築。そして新たなパートナーとの出逢いに向けて、私は今、両手を広げて、その「受け取り」を心待ちにしている段階です。
両手を広げるということはハートを開いて、私は授かるべきものをこの両手で受け取ります、との意思表示につながるんだとか。
やっと自分が融け込む、自分が本来いるべき、あるべき世界がわかったからです。
どんなに立派な「オケ」を選んでも自分自身の奏でる音にふらつきがあれば、その音楽はそれなりのものになってしまいます。
自分を最高の状態に導いてこそ、「オケ」との完全なる融和が実現するのです。
その「最高」とは無理をすることでも背伸びをすることでもなく、ただただ等身大の自分を感じているということです。
自分自身の等身大を知るだけなのにこんなに苦労して、こんなに時間もかかって。
けれどその苦労が大きかったからこそ喜びもひとしおです。
私の最高の演奏をオーケストラのメンバーと共にこの地球に伝番させていく。
その喜びは私だけではなく、すべての命に与えられた権利であり、義務であるということなのかもしれません。
すべての命に平等に権利は与えられているのですよね、まちがいなく。
生きる。ほかの誰でもない自分を「生きる」。