先日、難産についてお話しました。
今朝、その「続編」のメッセージが浮かびあがってきました。
先日
〇 私はどうやら母にとっての精神的難産の状況の中でこの世に誕生してきたらしい
〇 その、母の精神状況の影響で私自身「生きていくことは大変だ」とか、
「人生は苦しみの連続だ」とか、
その辺の「人生は苦行」チックな考え方が私の人生のベースになっているようだ
〇 それに伴い、私にとっての出産、つまり「さまざまな作品の創造」はかなりの困難を伴うもの
で、時間とたくさんの労力をかけないと良いものが生み出せないと思い込んでいるらしい
↓
〇 難産という概念を認め、受け容れ、自分自身に統合する時が来たようだ
とのお話をしています。
さて、今朝浮かんできたのは
〇 私は自分の生きる世界の価値観、つまり「世界観」の再構築を行い、その作業そのものが大変
な「難産」だった
という事実です。
私たちはこの、自分が生きている地球全体の価値観を変えることはできません。
が、どういう地球であってほしいか、どういう価値観が自分の世界が広がってくれるか、それを決められるのは私たち一人ひとりの意識です。
同じ状況を見てもその人にとってとらえ方は変わってきます。
例えば今の気象状況を「生きづらい大変なサバイバル状況だ」と感じる人もいれば、「大変なのは確かだけど永続的に続くものではないし、そこには何らかの愛が託されているはず。それを感じることができるといいのだけれど」と感じる人もいるはず。
他の感じ方もありますね。
つまり、その「現実」はその人がどうとらえるかでまったく異なる世界観が構築されていく。
今までも、すべてそうだった。
という仮説が成り立つのではないでしょうか。
私は今まで人生の課題として、自分の生きる世界は「苦行」「修行」がベースになった、大変つらいものであるべきだ。その中でいかにがんばれるかが自分に課せられたテーマなのだろうと感じていた。
おそらく私の深層心理はそうだった、という一つの結論に達しました。
それは今までのこと。これからは自分の生きる世界は喜びに満ち溢れた極彩色の世界。「苦行」がベースではなく、いかに本当の自分を引き出せるか、いかにありのままの自分と共にいられるか、自分のハートの息遣いを自分自身で感じる、そんな等身大の価値観がベース。
そのように自分の意識そのものを再構築、再生し直すことができたのです。
そのタイミングが私にとっては「いま」でした。それが私の「DESTINY =運命」だった、ということが「いま」わかったのです。
私たちは顕在意識と言われる自分自身で認識できる意識の中でいくら「私は自由だ」と叫んでも、自分では認識することのできない潜在意識の中にそれと真逆の意識が潜んでいますから、そのどちらも対等に平等に受容しなければ、自分の望みはなかなか叶いません。
いわゆる「引き寄せの法則」の限界を感じている人がいるとすれば、潜在意識へのフォーカスが不十分なのでは、ということが考えられるわけですね。
ところが潜在意識というのは、本当に複雑で奥深いもの。頭でこう考えたらこうなる、というシンプルなものではありません。公式通りに進むものではないということです。
もしも公式通りに進むのなら、私の人生も、もちろんあなたの人生もこんなに大変な道ではなかったはず。
その状態、現実を受け容れ、真摯に誠実に向き合い続けるのが私たちの人生の大きなテーマなのだろう、が「いま」の私の世界観です。
これもまた変化の時が来るのかもしれませんが今の私にとってはそれが「ベスト」なのではないかと感じています。
このように、私たちは自分の住む世界の価値観のベースを自分の意識で創り出す、つまり「創造」することができるようになっているようです。
私はそのプロセスを「難産」という状況で楽しむ魂だった。
その「難産」を「安産」というシフトに変える、そのこと自体、自分の意識設定で行うことが可能だということが今明確になりました。
「難産」から「安産」へ。
もちろん「難産」がいけないという意味ではありません。私にとっては「難産」はとても重要なマターでした。「難産」だからこそ感じることのできたさまざまな宝物たち。
がその時期は終了した、という確信が今朝浮かんできてくれました。
私は新たな「世界観」の中でたくさんの人々、動物君、たくさんの光、命と共に、たくさんの創造作業を進める段階へと踏み出しました。
その時が来ました。
たくさんのお仲間と共に、人生をトコトン味わい尽くす、そんな新たなステップです。
台風の猛威ばかりが強調されて、確かに大変な状況が発生している場合もあるかもしれません。
けれど。
「風は変わっています」
あなたがどう感じていたとしても。
その選択の自由の一つのヒントが私のこれらの言葉の中に託されているのかもしれませんね。
私の感覚は私独自のものであると同時に、どなたかと共有すべき「何」かが私を媒介にして言葉としてエネルギーとして世の中に放射されているもののような気がしています。
どなたかのため、というより大いなる一つの「意思」の一部として。