二元論

おそらくこれが私たち人間を苦しめているのでは、という概念、観念にたどり着きました。

 

それは「二元論」、さらに「善悪二元論」。

 

「二元論」は初の世界宗教と言われるゾロアスター教の原理だそうです。

かなりバクっとした言い方ですが、そもそもこの世界は、善と悪の神の対立の場である、という考え方。

 

それをさらに確固たるものにしたのが「善悪二元論」。

宇宙は光と闇、善と悪、精神と物質のそれぞれ2つの原理の対立に基づいているとするマニ教の教義の柱となる考え方です。

 

宗教について何かを語るには私の知識は少なすぎてあくまでもにわか勉強の中で、「今」の私が感じたことですよ、ということでのお話です。

 

けれどこれらの考え方って、おそらく天国と地獄とか、あるいは光と闇の対立とか、天使と悪魔とか、聖と俗とか、それなりに私たちの生活の奥深くに浸透しているものではないでしょうか。

 

私はここ数年、ニューエイジ系のスピリチュアル的考え方にはまっていましたが、何か変だなと感じ始めたのはまさしくこの「善悪二元論」がベースになったものだと感じる点が多かったからです。

 

天使と悪魔しかり。

光と闇の対立しかり。

 

ライトワーカーの概念もそう。

選ばれた一部の人だけのお役目って、それ、不思議、と感じていました。

 

さらに決定的だったのは「ポジティブ・シンキング」という考え方。

ポジティブはよくてネガティブはいけない ?

 

えっ ?  それでワンネスは無理ですよね、と。

本来、すべての価値は同じだよ、すべては大いなる一つとつながっているよ、というのがワンネスの根本なのではないかしら、と個人的に解釈していたからです。

 

もちろんニューエイジ系のスピリチュアル的考え方のすべてに違和感を感じていたという意味ではなくて、ありがたい考え方もありました。

 

例えば私たちは天国と地獄があると教えられているけれど、実際亡くなった人や臨死体験、幽体離脱した人達のお話によると、どうやら天国と地獄とわけられた「あの世」は存在しないらしいという考え方。

 

これは本当に心を楽にしてくれました。

 

一方、上記に書いた項目などは正直ピンときませんでした。

では仏教とか神道とかはどうなの ?  と考えていくと、ディティールは理解できていないけれど少なからず二元論の考え方が含まれていることがわかりました。

キリスト教然り。ヒンドゥーなどもそうでした。

 

なるほど、大元が「対立」だったり「戦い・闘い」だったりするわけですね。根本の根本の考え方が。

 

もちろんゾロアスター教とかマニ教とかがいけないという意味ではなく、そこには素晴らしい世界観もあったのでしょうけど、ただし私たちの意識の中には集合意識、集合想念として、お互いに対立しあう関係がベースだという考え方が脈々と継がれてきたという真実があったのだろうと思うと妙に納得してしまったのです。

 

言葉を換えれば常に「勝ち負け」の世界、「優劣」の世界の中で私たちは何回も何回も生まれ変わり続けてきたということ。

 

例えばそもそもなぜ「聖」と「俗」を分けるのか。

「聖」の人にとってそれが好都合だから、ではないでしょうか。

当然「俗」の人にとっては不利な考え方です。

 

そこに敵対心だとか、優越感だとか、劣等感だとか、支配とか、あるいは隷属とか、そういう「戦い」「対立」ベースの意識が生まれてくることは当然ではないでしょうか。

 

なんだ、そもそもが「対立」だったのか、「協調」ではなく。

 

ストンと腑に落ちた感じです。

 

ちなみに東洋思想の陰陽理論だとか老荘思想「タオ」の考え方では、この辺は対立し合う関係ではなく、お互い支え合うとか、お互いが存在するのに必要不可欠なものとしてとらえる、とかこれもまたバクっとしていますが、すべてを包括する、という考え方がベースになっています。

 

この、根本、基本原理のようなもののコンセンサスが取れない限り、世界はいつまでたっても「対立」の場である、という考え方はなくならないでしょう。

 

だからと言って「二元論」を排除するというスタンスであればそれはやはり「二元論」の枠にどっぷりとはまってしまうということです。

 

とすると。

 

「二元論」「善悪二元論」をも包括できるような陰陽理論のような考え方が少しずつでも増えていくこと、浸透していくことの現実化が今の私たちに課せられた課題なのかもしれないですよね。

 

それを「ワンネス」というのかもしれません。一つの大きな「まる = 〇」という意味。

 

これ、ものすごく大きなテーマです。

頭での理解はできても、腑に落ちるのはなかなか大変。

 

でも気づいた、ということが何かの一歩につながるのではないでしょうか。

 

おそらく、なんですけど世界宗教の前は民族宗教とか古代宗教とかアニミズムという考え方がベースになっていて、その時点では「対立」の理論はそれほど力をもっていなかったのでは、というのが私個人のとらえ方です。

 

その中には「地母神信仰」なども含まれていたのかもしれません。

 

となると、私たちのお手本になるもののベースは案外そのあたりにあるのかもしれないな、という考え方が浮かびつつあります。

 

と言っても私は宗教家でも思想家でもないので個人的に意識をどこに持っていくかの話をしているだけ。自分のための心の整理です。誰かを巻き込もうなんて考えていません。もちろん誰かを否定したり、攻撃したりの意思もありません。宗教やスピリチュアルなどを否定する気持ちもありません。

 

なぜなら、まずは「自分」だと思っているから。

自分の意識の調整、調律こそが私の人生のテーマだと思っているからです。

 

自分が整っていないのに、「お~い」なんて声をかけられる余裕はありません。

 

でも嬉しい気づきの予感がしています。

 

何かが、けれどクッキリと視えてきたから。

 

私の中には「対立」のエネルギーが確固たるポジションをもって存在していました。

まずはその真実を認め、受け容れる。

 

その種まきが今、必要だったんですね。私の人生において。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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