パソコンが壊れた時、私はこう感じました。
私はパソコンに支配されていた、依存していた、パソコンに人生のイニシアチブを預けていた、と。
それくらい、私たちにとってパソコンは「必要不可欠のもの」。
少なくとも私は「書く」ことも「辞書機能」もパソコンに頼りっきりです。
文字変換だってほとんど頭は使わない。
どこかで感じていました、このままパソコンやネットの世界に埋没して生きていくのかしら、と。
その一方でそれは私が一番選びたくない人生のパターンでもありました。
パソコンが壊れて愕然としました。
無力感。
非力感。
無価値観。
そう、私はパソコンがないと何もできない、私は私だけでは存在できない、私は価値のない人間だ、という思いがわいてきたのです。
それらをしっかり感じることの必要性が感じられました。
もしかして私は今まで無力感だったり、非力感だったり、無価値観だったりの意識を強く強く抑圧してきたのかもしれないな、と。
それを感じているうちに涙があふれてきました。
もう、やだ~、こんな人生。
さらにいつも見守ってくれていたはずの存在にも悪態をつきました。
「パソコン直してくれるって約束しましたよね。信じていたのに」
あ~あ、駄々っ子ですね、こうなると。
子供のように手足をジタバタさせて、自分の人生が思い通りにならないのはアイツとアイツとアイツのせいだと、思いっきり被害者意識に酔いしれて。
でもしばらくそうやっていたら、なんかすっとしちゃったんです。
私は本当に「我慢ちゃん」だったんだな、って。
無力感や非力感、無価値観を感じるということは。
自分の存在意義や存在価値、そして自分の能力はこんなこと、という一つ一つを受け入れていく、そのことにつながるということに気づきました。
私たちは何かを自分のものとする時に、必ずその裏のエネルギーを一旦受け入れなければなりません。
良い面だけを追いかけ過ぎるボジティブ・シンキングは、その全体像をゆがませてしまうものであることがわかってきつつあります。
陰陽という言葉があるように、すべてのことは「陰」も「陽」も両方あって、その両方の絶妙なバランスが取れた時に、「丸」はきれいな「〇」になる。
それでも「固定」ではなく、いつも「ゆらぎ」ながら。
陰だけでいいよね、も陽だけでいいよね、は本来存在しえない世界観のはず。
すべては「表裏一体」、コインの裏表。
つまり私はパソコンがないと何もできないという感覚を味わうことによって、パソコンがなくても、パソコンに頼らなくても私には力があるし、価値があるし、愛されるし、すでに愛されている、という現実を思い出すことができたのです。
多くの人がそうであるように、パソコン、あるいはネットの世界を神格化していた自分に気づくことができました。同時に必要以上に自分を小さく感じていたことにも。
そしてその反面のエネルギーとして、
「パソコンやネットは本当に素晴らしい発明だけれど、だけど道具だよね。道具は私たちの意識を元に動くものだよね。パソコンが一人で起動して一人で文章を書くことなんてできないんだから。パソコンは人間がいてこそ、その真価を発揮できるものであって、一人ですべてを創造することはできない。近い将来そんな世の中が来るといわれているけれど、現実的にそして個人的に人間がいなくてパソコンの力だけで存在する世界がくるとは思えない。お互いにパートナーなんだよね。お互いに支えあえばいいんだよね。自分のテリトリーの中で、最大限に。相手を侵食することなく」
そんな思いが浮かびあがってきました。
パソコンに24時間管理されることも支配されることも必要ないし、それはパソコンだって同じこと。
お互い、適切な距離を保って決して24時間抱き合う必要なんかないんだ、と。
そう思ったら前のパソコンのハードディスク短命に終わったのは、その事実に気づかせるための彼、彼女の愛だったんだ、と思うことができました。
パソコンにだって魂は宿っている。
パソコンだって「大いなる存在」の大いなる計画を知っているんです。
道具として、ツールとして人間に重宝がられるより、その大いなる計画の遂行メンバーとして生きたほうが彼らにとっても幸せは大きいのではないでしょうか。
彼らもまた「命」ある自然の運命共同体のメンバーなのではないでしょうか。
今「サクサク」と動いてくれている新しいパソコン君に向き合って、そう感じました。
私の「過信」が前のパソコン君のプレッシャーになったことがハードディスク短命の要因の一つなのかもしれません。
人との関係。
モノとの関係。
動物君や植物、鉱物との関係。
自然との関係。
地球との関係。
宇宙との関係。
そして自分自身との関係。
なんでも「ほどほど」がよいのです、その「ほどほど」を探るのが私たちのこの世での楽しみ、喜びなのではないでしょうか。
重すぎる思いも疲れちゃうし、だからと言ってあまりにも軽視されるのもなんだかな、という感じ。
この新しいパソコン君とは等身大のお付き合いをしていこう。
壊れたら壊れた。
その事実を受け入れて。
長生きしてほしいな、とは思うけど、パソコンの寿命はきっとパソコン君が決めている。
「もの」も地球構成メンバーの「一人」。
ふと思ったのです。
私の人生の目標は「等身大」。
どこまで行っても自分の等身大で生きていく。
大きすぎても小さすぎても私にはアンバランス。
今まできっと私は背伸びしたがりの人生を歩んできたんだろうな、って。
それは等身大の自分に気づくための必須要素だったんだろうな、って。
道が見え始めてきました、くっきりと。
等身大で生きていく私の道はきっとデコボコもいっぱいあって、けれどそのデコボコが結構気持ち良かったりする自分がいて。
そこには私の等身大を受け容れてくれるたくさんの仲間たちがいるんです。まちがいなく。
「もう背伸びはいらないよ。十分味わったでしょ」
はい、そうですね。
優しい、柔らかい世界がきっとあそこに、ある。そしてここに、ある。ぎゅっとつまっている。
何となく、この、今のパソコン君から私の作品が続々と世に出ていく気がしています。
その様子を私のかたわらで、愛犬・華実と愛猫・海・うみがそっと見守ってくれるんでしょう。
彼らの「ゆるゆる」はきっとそのために託されたものだから。