数日前に『すべての感情が自分の資産』というエッセイを書きました。
きょうのエッセイはその延長上に浮かんで来たもののような気がします。
あの人の欠点。気になります。
この人の欠点も気になります。
けれど冷静になって考えてみたら。
あの人の一見「欠点」はあの人自身の気づきの種だったり、目覚めの種だったりに相当します。
同時にあの人の一見「欠点」はどなたかの気づきの種だったり、目覚めの種だったりに相当します。
そう、人生に無駄なし。
すべてのモノゴトには存在する意味がきちんとあるということです。
自分の欠点や自分の中に浮かんでくるネガティブな感情。
それらもすべて必要だからこそ。
それを欠点ととるか成長の糧ととるか。
ネガティブとされる感情をいけないものとするのか、ポジティブへの反転のチャンスの到来と捉えるのか。
それとまったく同じ理論です、人の欠点も。
その欠点だって、見る人が見たら素敵な長所なのかもしれません。
私のフィルターでは欠点に見えても。
そう、絶対的欠点などあり得ない。
すべては何かとの比較による相対的価値なのではないでしょうか。
少し視点は異なりますが、この連日の暑さ。
けれどここ数日の爽やかさで、私はだいぶ体力が戻りました、気力が戻りました。
さすがに数日前は加齢による衰えの現実を受け容れろ、というサインなのかと感じていました。
それはそれで現実なのかもしれません、抵抗はしません。
けれど数日のやや「快適」モードですっかり気力、体力を取り戻せたということは、私の自然治癒力はまだまだ捨てたもんじゃない、という嬉しい事実の発見に繋がりました。
つまり、猛暑、酷暑という状態があったからこそ、31度くらいの気温が異様なまでに「快適」に感じられ、同時にそのお蔭で快適気分を満喫した私の心身は、本当に快適さを取り戻してくれたということです。バランスを「私なり」のちょうど良い塩梅に戻してくれたということです。
そしてもちろんその「叡智」はすべての命の中に息づいていてくれています。
これがいつも通りの暑さだったら ?
ダラダラとしたゆるぅい毎日の感覚の中で、まぁまぁ大丈夫、くらいの感覚でとどまっていたかもしれません。
もちろんそれはそれでよし、ですけれど。
そう考えると「私」にとってはこの猛暑、酷暑もそれなりに意味のあるものだった、と言えるような気がしています。
万事、こんな感じ ?
それが突然、ストンと腑に落ちたのです、つい、さっき。
すべてのものに価値がある、意味がある。
一見「美しい」もの、「素晴らしい」もの、「こころが弾むような」もの。
それら「光」だけに存在価値があるのだとしたら、この地球はずいぶんと不要物にあふれているものですよね。
そんな星にわざわざ私たちは受肉のチャンスを授かったのでしょうか。
とてもそんな風には感じられないというのが私の今の本当の気持ちです。
いゃあ、暑かった。
でも私の中では暑さのピークは超えています、気象予報士による長期予報が何を訴えようと。
私はそう感じる。
それだけで十分です。
私は私を生きていく以外に方法はないのだから。
このエッセイを読んでカチンと来る方もあるかもしれません。
「そうそう、そんな感じ」と感じてくださる方もあるかもしれません。
「全然興味ないんですけど」、そういう方もいらっしゃいますよね、きっと。
それでも私には存在価値があるのです。
存在価値がなければこの世にこうして生きているはずはないのですから。
言うまでもなく、あなたにも。
人の物差しではなく、自分自身の物差しを活用するそのチャンスを満喫するために。